ディスカバー・ニッケイ

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サンフランシスコ市立大学で学ぶ(英語)

(英語)学位を取得しようと頑張っていました。当時学んだことで覚えていることは二つあります。弁論の講義をとり、ディベートチームの代表として各地でスピーチをする機会を得ました。とても良い経験でした。今こうやって米国中の人に語りかける上で、当時の経験は役に立っていると思います。あのような機会を与えられ、とても恵まれていると思いました。それが一つです。

二つ目は、労働者について学びました。社会学や社会経済学を学び、労働運動を勉強しました。労働者は社会の一部であるにも関わらず、いつの時代も虐げられてきました。労働者の経済への貢献を評価すべきです。


シティ・カレッジ・オブ・サンフランシスコ 大学(colleges)

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)