(英語)リビングストンでの生活や、当時経験したことをお話ししましょう。私たちが住んでいたのは、ヤマトコロニーと呼ばれる地域でした。リビングストンから2マイルほど離れていました。ヤマトコロニーの中心部には幼稚園や教会があり、住民の親睦活動もそこで行われていました。
5歳くらいの時のことでした。ある日、「ヤチ!」という父の声で目を覚ましました。当時、父は私を、「ヤチ」 または「ヤチオ」と呼んでいました。6歳で公立の小学校に通い始めるまで、私は「フレッド」ではありませんでした。「ヤチ!ヤチ!起きて馬を外に出すんだ!」父が言いました。一体何が起きたのか分かりませんでした。「納屋が火事だ!」と父が言うのです。深夜に誰かが火炎瓶を投げ込んだのです。納屋に火が付き、干し草が燃えていました。馬を逃がさなければ焼け死んでしまいます。火を消すために父が水を汲みに行く間、私が馬を逃がさなければなりませんでした。その時のことは今でもはっきりと覚えています。
子供が育つには良い環境ではありませんでした。町に出入りする時に通るハイウェイには、「ジャップ立ち入り禁止」という看板が立っていました。穏やかではないですよね。そんな社会環境、経済状況で育ちました。ですから、一世の農民がこのような状況に耐え、そして成功したというのはものすごい功績だと思うのです。
日付: 2005年3月4日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター