市況放送開始
1930年代のカリフォルニア州では白人に次いで日系の農民が多く、日系農民は特に近郊市場向けの野菜や果物類の生産を担っていた。1930年の統計では職業についている日系人のうち53%は農業に従事していた。作物の収穫時に必要とされる多量の労働力については邦字新聞での募集に加えて、メキシコ系やフィリピン系の労働者を雇い入れて対応していた。
1933年に発生した農業労働者のストライキを契機に、南カリフォルニア地域の36の組合の代表者が集まり、これらを束ねる組織として1933年に結成されたのが南加中央農会であった。中央農会は生産調整、出荷調整、農業労働者との労働協定、他団体との交渉の役割を担っていた。
この南加中央農会が主催する日本語番組「南加中央農会市況放送」が1935年2月4日にロサンゼルスのKRKD局より開始された。毎日朝15分間の放送である。
南加中央農会幹事である加藤新一が放送を担当し、1936年4月に加州毎日新聞での記者仲間であった沼田利平が加わった。当初は1ヵ月間の試験放送扱いということで、送信出力を低く抑えて放送している朝6時以前の時間を利用せざるを得ず、早朝の番組となった。
加州毎日新聞(1935年1月29日)によると番組内容は以下の通りとされた。
- 当日朝の市場における入荷、市況、相場、残荷等の速報
- 天気予報
- 前日の東部市況
- 参考資料の放送(不正パック取締り警告、邦人農家に関係ある各地の作柄耕作面積等全米の農産界のニュース等)
- ニュース放送(世界重大事件大要)
初日は中央日本人会々長迎田勝馬の挨拶および南加中央農会幹事加藤新一による市況報告が放送された。放送は帝国平原地方を含め各地で良好に受信できたとしている。
滑り出しは順調で、リスナーにも好評の番組であったが、毎日の放送とあってラジオ局に支払う放送料を工面するのに苦労させられた。放送開始後ひと月が経過した3月2日に開催された中央農会理事会でこの市況放送の経費問題が議論され、加盟団体による経費負担、有志に寄付を仰ぐこと、加盟団体以外にも寄付を依頼することが決議された。
3月19日の理事会でも分担金の速やかな納付と寄附の依頼を可及的速やかに行うことが決定された。寄附依頼を行うにあたり、農会理事が率先して特別寄附を行うべきとし、高田春太郎会長以下の篤志を含め約250ドルが即座に集まったとされる。
そのような状況のもと、3月18日からは放送時間が朝5時半からの30分に拡大された。これにより時間的な余裕が出来、市況に加えて「排日土地法案について」「容器問題」といった農業に関係する講演が放送されるようになった。
1935年6月には南加中央農会の発展的解消に伴い南加農会連盟が誕生し、市況放送の実施主体も同連盟に引き継がれた。しかし、同年夏ごろよりスポンサーの数が減少してきたため運営資金不足となり、苦渋の選択として9月中旬より放送時間を15分間に短縮した。更に経費削減のため、10月初旬に放送局を変更することになった。
放送局変更
南加農会連盟の市況放送は1935年10月7日からロングビーチのKGER局で再スタートを切った。当初番組経費捻出方法が確立するまで15分間の放送を継続するとしたが、15分間では市況を伝えるには不充分であるとの不満から、10月14日から30分番組に復帰した。
とは言え経費問題が解決したわけではなく、農会連盟で具体化中の経費捻出方法が確立されるまでは有志の特別寄附により対応するとしている。1ヵ月の経費として15分放送で200ドル、30分放送で300ドルが必要とされた(『加州毎日新聞』1935年10月10日)。
幸いにも地方の農家からの寄付が続々と集まってきたというが、それにも限度がある。このような資金的に不安定な状況にもかかわらず、加藤の努力により放送が続けられた。
1936年2月22日に南加農会連盟定期代表者会議が開催され、「ラジオ放送部設置」が可決された。3月16日からは放送開始が朝5時半に変更された。その表向きの理由は、春になり日の出が早くなり、農家も早く農園に出る必要があるためとしているが、実際は放送料金が安価な時間帯を選んだ結果なのかもしれない。
加州毎日新聞との確執
番組開始当初は「いよ々々加藤の新ちゃんが『皆さんお早う……』とアナ君になって御目見得東西々々」(『加州毎日新聞』1935年2月1日)と、かつての同僚にエールを送っていた加州毎日新聞であったが、1936年8月頃から農会連盟放送と加州毎日新聞との関係悪化が表面化し、同紙に農会連盟放送(あるいは加藤や沼田個人)への批判が頻繁に掲載されるようになる。
この背景としては1936年に農業労働者のストライキ問題が浮上した際に、路線問題で対立したことが挙げられる。農会連盟(加藤幹事)は労働者組合の承認を拒否する姿勢を貫くよう構成員に指導した。一方、組合を承認して問題の早期解決を望む地方組織も存在し、それを応援する加州毎日新聞は、一律の対応をとるのではなく、それぞれの地域で状況に応じて問題解決にあたるべきと主張した。
加州毎日新聞での批判は、最初のうちは放送収支が不明瞭で寄付金がどのように使用されたのかを明らかにせよ、ということに留まっていた。しかし、10月に入りガーデナ平原の農業組合が農会連盟の方針に異を唱え、連盟を脱退したことに伴い、今度は市況放送において加州毎日新聞に対する批判が炸裂した。その一例を加州毎日新聞紙面より紹介する。
農連支配人加藤新一君が連日にわたり加州毎日及び藤井社長罵詈誹謗せる事実を〔中略〕報道せるが更に本朝は放送時間を延長してきくに耐えざる毒舌を振って藤井社長を罵倒し、之に関連してカーデナ平原農家に対しこれ亦驚くに絶へた暴言を吐いた。
加藤支配人は本紙の記事を「大嘘」であると放送せるのみならず、同君が前日に放送せる藤井社長攻撃原稿を重ねて再読して本紙の記事が虚報なりと豪語した。然るに何ぞはからん其原稿には本紙の記事以上に藤井社長を誹謗した悪文字が続々に連載されて居たには一層驚いた次第である。
例へば「赤化新聞のお手先」であるとか「おとなしくして居れば時が来れば許してやる」と言ふが如き言葉を平気で放送した。(…)
(『加州毎日新聞』1936年10月20日)
加藤支配人の放送によれば自分(加藤)は三千有余名の農家を代表して同胞の敵獅子身中の虫藤井整及び其尻馬に乗って赤化の手先となるガーデナ平原農家のわからずやを断滅するにある。自分の言ふ事は加藤新一、一人の言でなく農連に代って言ふのだとの事であった。
(『加州毎日新聞』1936年10月21日)
加州毎日新聞の主張に賛同するいわゆる加毎応援団も黙ってはいなかった。サンゲーブル平原産業組合は1936年12月に臨時総会を開催し、①農会連盟幹部および加藤新一支配人の勇退を希望、②農会連盟と加藤が編集を担当する加州農産週報との関係を断絶すること、③農会連盟放送部の改良、の3点を決議した。
日曜夜の放送
1936年10月25日より農会連盟は毎週日曜日夜8時半からの放送をKGER局で開始した。この放送の目的はストライキ問題に対する農会連盟の主張を伝えることとされる。
番組では各地の代表者や加藤新一が出演して熱弁をふるった。11月8日の放送では「加藤支配人がユニオン問題で同じ事を78回放送したと数へた熱心家が居る。同じ事を78回ではいかにがまん強い者でも悉くウンザリする」(『加州毎日新聞』1936年11月10日)とも伝えられた。
熱弁だけでは飽きられると自覚していたようで、流行唄や漫談も放送した。この夜の放送は約1ヵ月間続けられた。
末期のトピックス
1937年1月から南加産業日報提供の「日本電報ニュース」が開始された。特に日支事変以降は速報を放送するということで、朝一番の日本語情報源としてリスナーに重宝された。
1940年に入ると日本の大相撲の勝敗を伝えるようになり、相撲ファンに喜ばれたという。9月にはアナウンサーを務めていた放送主任の沼田利平が日本に帰国することになった。後任には青山学院大学を卒業後1936年に渡米した農会連盟職員の小野國雄に白羽の矢が立てられた。
1941年12月6日(土)の放送が最終回になったものと考えられる。
ところで、加藤新一は1961年に『米国日系人百年史 : 在米日系人発展人士録』を著した。そこでは「ラジオ邦語放送」として、簡単な日本語放送史を記述している。
加州毎日新聞が主宰した加州毎日放送は戦前5年間にわたり放送され、当然触れられるべき番組であるにもかかわらず、その記述が見当たらない。加藤の加州毎日新聞に対する思いがここに表れているのではないかと考える。
参考資料:
松本悠子 「1936年 ロスアンジェルス・セロリ・ストライキとニッケイ農業コミュニティ」(1992年『史林』より)
*本稿は、『日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋です。
© 2020 Tetsuya Hirahara