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第7回 歯科医ドクター・コーエン提供の日本音楽放送

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ロサンゼルスで歯科医院を経営するドクター・コーエンがスポンサーとなり、ロサンゼルスのKTM局で日本語放送が3期にわたり放送された。コーエンは移民社会の顧客を取り込むことに熱心な歯科医で、ロサンゼルスやメキシコ国境のラジオ局において多数の宣伝や番組提供を行っていた。ヒスパニック向けには「スペイン語を話します」と売り込み、邦字新聞紙では「日本人看護婦が出勤しております」などと宣伝し、低価格でのサービスを売り物にしていた。


日本音楽番組

ドクター・コーエン放送の広告(『羅府新報』1932年3月8日)

1932年2月8日(月)から毎週月・水・金曜日に15分間の日本音楽放送を開始した。初日は夕方、2回目は朝、その後13時からの放送となった。番組の編成は岡田渓水(猪三郎)が経営する帝国貿易商会が担当した。

放送内容は、特別なタレントが出演し、中国事情に関する最新のニュースを含む時宜を得たトピックスを盛り込み、この日本語番組を今まで放送された中で最高のものにすると報じられた。カリフォルニア州在住の日本人に対する感謝のしるしとして、また、日本人の芸術の質の高さを証明するためこの番組を放送するとしている。

詳しい番組内容が初めて報じられたのは2月17日の番組であった。それによると、佐藤良正のハーモニカ独奏と、レコード演奏で「東京行進曲」、「軍艦マーチ」、「家へかえりたい」(バートン・クレーン)、「エロ行進曲」(淡谷のり子)、「独立守備隊の歌」(陸軍戸山学校軍楽隊)が流された。当初報道のようにカレント・トピックスを取扱うことは早々に諦めてしまったものと思われる。

また、2月19日の番組では、田代愛子の「音の流れ」等のピアノ演奏、アグネス宮川の歌に加えて、1932年1月から2月にかけて発売された新譜である「花街風景」(松竹和洋合奏団)、「満洲征旅の歌」(内田栄一)、「キャラバン」(四竈清)を取りそろえた。

ところで、雑誌「ラジオ・ドゥーイングス」(1932年3月4日)の Q&Aコーナーで次のようなやり取りが掲載された。

Question ― この前の金曜日朝9時45分に奇妙な番組が聴こえました。日本語だったと思います。番組の最後の部分を聴いただけで、何の番組だったのかが分かる前に誰かが他の局に〔ダイヤルを〕まわしてしまいました。何だったのでしょうか?

Answer - あなたが持っているラジオが短波用ではなく普通のものであると仮定すると、KTM局から放送されているロサンゼルスの日本商工会議所の番組を聴いたものと思われます。月・水・金の同じ時間にトライしてみてください。 

スポンサー名の誤りがあるものの、アメリカ人社会にも浸透していた番組であったと言える。ただ、Q&Aが掲載されるタイミングが悪く、雑誌発行時には既に放送時間変更が行われていたため、その時間にダイヤルを合わせてもこの番組を聴くことはかなわなかった。また、3月半ばまでには番組そのものが終了となった。


杉町みよし独唱番組(その1)

装いも新たに1932年6月から1ヵ月にわたりKTM局で毎週水曜日の20時半に、ドクター・コーエン提供により杉町みよしの独唱が放送されることになった。杉町は1920年代半ばよりシアトルを拠点に活動していた声楽家で、日系社会のみならず白人社会にも広くその才能が認められてラジオをはじめ幅広く活動していた。シアトルではKFOA局の専属歌手として1924年からラジオ放送に出演していた。日本でもビクターからSP盤が発売された。

杉町は1928年夏にロサンゼルスに居を移し、KHJ局やKFI局で声楽を披露していた。その後奨学金を得て、11月にミラノ(イタリア)留学へと旅立った。イタリアからの帰国後ロサンゼルスのKMTR局他に出演し、留学の成果を発表していた。杉町との出演交渉は上記日本音楽番組が始まる前から行われていたものであった。

杉町みよしは、この放送は日本人向けなので出来るだけ日本曲を独唱するが、それ以外にオペラやクラシックの外国語歌曲を歌うとしている。

第1回の放送は6月29日に行われた。杉町がオリエンタル・トリオの伴奏により、オペラ曲および日本の「せっせっせ」「花の唄」を独唱した。加えて、オリエンタル・トリオの三重奏も行われた。日本語のアナウンスは経験者の前田輝男が担当した。

ドクター・コーエン放送の広告(『羅府新報』1932年6月23日)

第2回の放送ではオリエンタル・トリオを従えてベルディーやグノーなどの外国曲を中心とした独唱の選曲がなされたが、山田耕筰の「きんにゃもにゃ」や国際オリンピック選手派遣応援歌「走れ大地を」も歌われた。後者は7月末に開会式を迎えるロス五輪に向けて在留同胞が応援歌を覚えて歌えるようにとの配慮であった。

7曲中2曲が日本の歌という選曲は第3回の放送でも踏襲され、この日は中山晋平の「紅屋の娘」、山田耕筰の「からたちの花」が歌われた。杉町に加え、地元で活動するオリバー・グリークラブが出演し、クララ須々木の伴奏で2曲を合唱した。

最終回にあたる第4回(7月20日)は趣向を変えて、子供向けの童謡やオリンピックの歌を盛り込んだ内容とした。


杉町みよし独唱番組(その2)

杉町の歌唱番組はまとまった形で日本の音楽を楽しめることで人気を博したものと思われ、1ヵ月のブランクを経て1932年8月24日に番組が再開された。前回同様KTM局からの番組で水曜日の20時半に放送された。アナウンサーには羅府第一学園を卒業した鬼頭文子が起用された。

番組予告によると、ミニアチャー・シンフォニーの伴奏で、「沖のかもめ」、「鉾を収めて」、「出船」といった藤原義江の持ち歌や、「ふるさと」、「椰子の実」「かえろかえろ」といった日本の曲を中心に選曲されている。毎回「子守唄」が歌われているのも特徴的である。

今回も4週連続の放送を行い、9月14日が最終放送となった。最終日に歌ったのは「椰子の実」、「さすらいの風の歌」、「子守唄」、「私の太陽」であった。

続く >>

 

*本稿は、『日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋です。

 

© 2020 Testuya Hirahara

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このシリーズについて

1921年にいち早く商業ラジオ放送を始めたロサンゼルスでは、1930年から定期的な日本語ラジオ放送が始まった。シアトル編に続き、今シリーズでは戦前ロサンゼルス地域での日本語放送の歴史を全5回に分けてたどる。

*本シリーズは、平原哲也氏の著書『日本時間(Japan Hour)』からの抜粋で、『羅府新報』からの転載です。

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シリーズ「日本時間 ~日本語ラジオ放送史~」

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執筆者について

中学生の頃から外国の短波放送を受信する趣味を始める。ラジオ全般の歴史にも興味を持ち、近年は南北アメリカ大陸で放送されていた日系移民向けラジオ番組の歴史について調査している。2020年に北米大陸で戦前に行われていた番組を紹介する『日本時間(Japan Hour)』を自費出版。

(2022年 9月更新)

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