ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/11/2/north-american-times-16-pt1/

第16回(前編) 帰米日系市民協会の活動

前回は二世が政治的活躍をした日系市民協会ついてお伝えしたが、今回は帰米二世が設立した帰米日系市民協会の活動の様子についてお伝えしたい。

二世の中に帰米日系市民と呼ばれた人たちがいた。帰米日系市民とは幼少の時日本に帰って日本で生育し、再び米国に帰った日系市民のことを言う。その多くが第13回で述べた米国と日本の両方に国籍を有する「二重国籍者」であった。

1930年頃、シアトルでは帰米日系市民の将来性を極めて重要視し、奥田平次氏らが後援者となり、黎明(れいめい)社、銀星倶楽部と合併して1932年、帰米日系市民協会がシアトルに設立された。会員は当時120から130人だった。

『北米年鑑』1936年版によると、1934年にシアトル市の米国出生の第二世は約4000人いたので、帰米日系市民協会の会員はシアトル在住二世の約3%程度となる。
 

帰米二世の実態

某帰米二世が北米時事社社長の有馬純義宛に出した手紙の中に、帰米日系市民の実態について述べられていた。有馬は「北米時事」の自身のコラム「北米春秋」でその手紙をとりあげ、帰米二世の特徴を「支配されて居る特殊な境遇」とし、具体的に次のような点を挙げている。

「北米春秋 — 帰米市民の諸君へ」(1939年12月15日号1

(一)確乎たる目的なく帰米し又は帰米させらた者が多い。
(二)帰米以来不況に直面して居る。
(三)両親を失ったものが多い。
(四)責任ある保護者を持たぬ者が多い。
(五)比較的学歴なく充分英語を解し得ざるものが多い。
(六)指導者たるべき有志先輩を欠いて居る。
(七)米国育ち第二世との融和が困難である。

アメリカに渡った一世達は一稼ぎしたら、日本へ帰国する人も多くいた。これ等の一世の子供達はアメリカでの生活に浸りきれないまゝ幼少時に日本へ帰国した。


帰米日系の阻止と推進

日本にいる二世の帰国を阻止しようとする記事も見られた。

「日系の帰米を阻止する法案」(1935年10月21日号)

「日本に居る二世市民の帰米に相当重大な影響を見るが如き法案が来る中央議会に現れるかも知れないと伝へられて居る。それは目下沿岸の議員中で『海外に留学又は居住する米国市民は必ず2ヶ年以内に帰米せざるを於てはその権利を喪失する』と定める法律を研究中であると云ふに基づくもの。(中略)

もし之が法律となる様なことがあればいわゆる帰米日系等に取っては重大な結果を見るに至るは勿論である。しかも本案は目下加州方面で盛に叫ばれて居る。帰米日系運動に対する加州の政治家の対案であるとも云はれて居る程であるから、その及ぼすところは勿論直接的なものであらう。

然しながら原則として米国市民の旅券の効力は2ヶ年となって居るが、之に理由ある期限の延長が許される如く、そこには何等かの延長方法が定められるかも。手続き次第によっては2ヶ年毎に一度帰米するが如き項は省かれるかも知れないとも見られて居る」


帰米を推奨し、その促進のために活動する人物を紹介する記事があった。

「市民権を有する若い人を米国へ―呼寄せて貰ふ運動、力行(りっこう)会の青木氏来沙」(1938年4月20日号)

『北米時事』1938年4月20日号

「米国市民権を有しながら、幼少の折、両親に伴はれて、日本に行き、日本の教育を受けて、その儘日本に留まっている二重国籍者を米国に送り帰へすために米国側の実情を調査し、斡旋機関を作る目的で、昨年渡米し、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に各方面と折衝。更に山中部からシカゴに出で東部に滞在中であった力行留学生学園長青木氏は来る22日出帆の氷川丸に乗船帰国する事となり、昨日来沙(シアトル)。左の如く語った。

『米国市民権を持つ若い人が日本に4万人位居るので、これらの人達を米国に送り戻すために努力し、先ず米国側の実情調査に来た。サンフランシスコでは真剣に引き受けて呉れる人があり、既に何人か渡航して来て居る筈だ。大体農園で働ける様な人を送る考へだが、ニューヨークあたりでは会社の支店等で働ける人が欲しいと言ふ事だった。

シアトルにも若い人達を送り戻し度いので真剣に世話して呉れる人が欲しい。氷川丸の出帆までに、そう言ふ人を捜して行き度い。

帰国後は日本に居る若い人達に米国の実情を語り、本格的活動を開始するが、一方日本に留学中の第二世諸君もお世話したいと思って居る。現在では14、5人お世話して居るが、力行会は経費がかゝらず、親達も非常に喜んでゐる』」

文献によると1940年国勢調査でアメリカ在住の二世の人口は約20万人で、本文中にあるように1938年頃の日本在住二世人口は約4万人だったため、二世のうち20%弱の人が日本へ帰国していたと推測される。


帰米日系への意見

帰米日系市民に対して有馬純義はコラム「北米春秋」で次のような意見を述べた。

「帰米市民の難題」(1939年11月20日号)

「僕は帰米日系市民の英語学習の必要を再三指摘したが、彼等がこの点を未だ真剣に考えへて居らぬやうに見えるのは遺憾である。彼等は今日に於ては比較的楽なその日を送り得て居るであらうが、十年乃至十五年先に至って彼等の立場はどうなるか、が彼等個人として亦その時代になっての日本人社会の問題として重大な問題であると思ふ。

その時代になって英語の力を持たぬものは30年前に英語を解せざりし第一世移民の不便不自由とは比較にならぬ程度の困難を感ぜねばならぬ。それは個人として就職の不便となり、社会としては米国育ちの第二世との対立と云はずんば融和困難の問題を生ずる危険がある。(中略)

極く少数を除いては勉学心の希薄を指摘せねばならぬやうに思ふ。それには種々の理由もあらうが、その一つに英語学習の困難にぶつかり早くも腰砕かれてしまったことが大きな理由ではないかと思ふ。同時に彼等が第一世移民の苦闘の真意義を理解し得ず徒(いたず)らにアメリカの皮相的ジャズ文化の雑音に圧倒されて自己忘却の日陰者的生活に甘んじて居る傾向も看過出来ぬと思ふ。

その根底には彼等が渡米後の理想と現実の甚だしく喰い違ふ失望のあることを無視出来ない。これは同胞社会としても充分同情的態度をもって彼等をもっと希望的ならしむる用意がなければならぬと思ふ。

しかしながら根本は彼等自身の問題である。一言にして尽くせば彼等の若さに於て向学心の希薄なるを僕は何よりも遺憾に思ふ。彼等は折角渡米し得た特権をもっと自覚認識して努力すべきだ。同時に又同胞社会も社会の仲裁者として期待せるところにも応え得る実力を涵養(かんよう)せねばならぬ。何時までも基金募集の演芸会のみが彼等の能事であるべき筈はない」
 

帰米二世の意見

「北米春秋」を読んだ某帰米二世から、北米時事へ手紙が送られた。有馬はその手紙を断片的に紹介した。

「北米春秋—帰米市民諸君へ(一、二)」(1939年12月14、15日号)

「吾々帰米二世は貴下の記事に在る如く大に反省して克己心、堅忍持久の精神を涵養し向学心を濃厚ならしめ進出の気を以って同胞社会の仲裁者としその義務を全ふしたい。(中略)

多くの帰米二世がスクールボーイをしながら苦学せんとして居るのに、下手な我々の英語を教室で嘲笑するのは白人ではなく吾等の兄弟姉妹である米国育ちの第二世であった。更に又何か就職を同胞社会の第一世に依頼しても思ふやうにはして貰えなかった。かかる境遇に置かれ然かもよき指導者を有せざる青年の全部が聖人の如く真面目に一人育ちすべきだと見捨てて置くのは間違ひであったと思ふ。(中略)

帰米日系市民協会はお互いに同じ特殊な境遇にあった吾々が慰安を求め更に相助けてよき日本人、よき米国市民としての義務を果たさんとして創立された。(中略)

教会のメンバーは一致団結して語学学習の法を研究し日会、教会、公立学校等からよき指導を仰ぎ座談会を度々催し、領事、新聞記者、日会役員、支店長、教会の牧師、二世先輩などに依頼して政治、経済、社会問題等を聴講したい」

『北米時事』1939年12月14日号


この帰米二世の手紙に対して有馬純義は「北米春秋」で次のように述べている。

「若い帰米諸君がこの心掛けと決心をもって進まんとすることには満腔の熱意をもって激励せねばならぬ。寧ろその意気は我々が反って青年諸君に教へられるやうのものだ。(中略)

帰米前の憧れの米国と帰米後の現実の米国との距離が相当にあるであらうことは我々にもよく想像出来る。これが一種の失望を多くの帰米諸君に与えて居るのであらうと思ふ。(中略)

同胞社会も仲裁者たるべき帰米市民の問題をもっと真剣、熱心に取扱ふべきである。彼等が衷心の熱望は精神的指導と云はずんば理解と奨励であらうと思ふ。彼等こそパンよりも精神或は方向を求めて居るのである。(中略)

『一帰米市民』の言ふが如く『折角渡米し得た特権を充分認識』して大いに努力せんことを希望して置きたいと思ふ」

第16回(後編)>>

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

*本稿は、『北米報知』に2022年8月1日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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