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日本人の高い出生率
前掲の1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で出生者数が激増した頃の様子をシアトル帝国領事館による同館領域内在住日本人についての数字を元に次のように語っている。
「1910年頃から約10年間は産婆成金の露出した時代で月々に生まれる同胞子女の数は素晴らしい数に上った。統計によると1910年の出生総数は267名であったものは、逐年増加して376名,461名,402名,477名,509名-といふ風に上がって1919年には854名に達した。
実に一ケ月の出生児が平均71名強といふのであるから産婆成金が露出するに不思議はないのである。実際この時代のメーン街は偉観を呈し、異観を呈したものであった。凡そここを上下する婦人といふ婦人にお腹の大きくないのはなく、又云ひ合わせたように悉(ことごと)く赤いスエターを着ている。右と左の手には漸く歩けるやうになった年子の子引ひている。その後からはゾロリゾロリと四五人か五六人の子供は附いてゆく。斯うした光景と情景とは約十二三年に亘(わた)ってメーン街路に展開された」
この記事に記載の出生数を文献によるデータも加え、1910年から20年までまとめると表1の通りとなる。
「加州邦人七万」(1919年12月12日号)
「加州衛生局の発表によると、カリフォルニア州現在…