新舛 育雄

(しんます・いくお)

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第12回(後編)国語学校での2世教育

第12回(前編)を読む >> 教科書問題 『北米時事』の1919年2月13日号1の記事には、国語学校で使う教科書について話し合いがもたれたことが記されている。 「シアトル国語学校にては兼て教科書編纂の議あり。学務委員会にてしばしば協議の結果当ワシントン州各地国語学校教師並びに維持会役員、学務委員等の意見を徹して最後の決定をなし編纂に決せば協同事に当ることゝなりたるより、一昨日実業倶楽部に於て州内15校当事者会を催したるが、出席者は8校を代表せる。 植村(スポ―ケン)、槇山、山下(ケント)、住吉(ウインスロー)山際(ベルビュー)、木下、及川(ファイフ)、友貞(オロリア)、柿原(ポートブラツレー)、熊谷(グリンレーク)諸氏、シアトル国語学校側は高畠校長以下教師6名、伊東維持会長、秋吉学務部長、天野、橋口、永井、土屋の学務委員諸氏にて伊東氏を座長に推し懇談会となした。 (中略)秋吉氏は沿岸協議会が本問題に関し昨年来調査を進めつゝある如くあると。サンフランシスコ及びロサンゼルスに於ては既に着々と編纂を行ひつゝある如くなれば、教科書を改訂するか、或は新た編纂するの要あるは各地共之を認め居れるのと見るべきは改訂若しくは編纂の時機到来せりと述べた。 高畠氏は現在使用の文部省国定教科書内容中不適当の個所及び児童に採りて余りに困難なる個所に就て説明。 (中略)来会あらざりし6校の…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第12回(前編)国語学校での2世教育

第11回にお伝えした写真結婚から多くの日系2世が誕生したことで、アメリカで生まれた子供たちの日本語教育がシアトル日本人社会での課題になった。今回は、2世の日本語教育のために創立されたシアトル国語学校についてお伝えしたい。 シアトル国語学校創立 シアトル日本人会は1902年に、北米最初の日本語学校としてシアトル日本人会付属小学校を創立した。創立当時、生徒数は4人、教師1名だった。1908年にシアトル国語学校へ名称変更した。 校舎は日本人会の建物内にあり、その後にシアトル仏教会地下室に移転。生徒数が増加したために、1912年に新校舎がウェラー・アベニューに新設された。この新校舎の2階の窓からはㇾニア山の壮大な眺めを見ることができた。この校舎は、現在もワシントン州日本文化会館として現存している。 増築工事・落成式 1917年末に、更に4教室の増築が計画された。この増築工事の様子を記載した記事があった。 「増築委員会」(1918年1月8日号1)  「国語学校増築工事も茲(ここに)十余日にて全く竣成(しゅんせい)すべき運びとなり居れるが、奥田平次会長及び委員宮川万平氏は近々帰朝の筈なるにより、同委員は昨日実業倶楽部に会して種々協議したるが、今日までの寄附金は6789ドル10セントに及び今後寄附あるべきもの1300~1400ドルあれば合計上には何等差し支へを生ぜざるべしと。…

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第11回(後編) 写真結婚の隆盛

第11回(前編)を読む >> 日本人の高い出生率 前掲の1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で出生者数が激増した頃の様子をシアトル帝国領事館による同館領域内在住日本人についての数字を元に次のように語っている。 「1910年頃から約10年間は産婆成金の露出した時代で月々に生まれる同胞子女の数は素晴らしい数に上った。統計によると1910年の出生総数は267名であったものは、逐年増加して376名,461名,402名,477名,509名-といふ風に上がって1919年には854名に達した。 実に一ケ月の出生児が平均71名強といふのであるから産婆成金が露出するに不思議はないのである。実際この時代のメーン街は偉観を呈し、異観を呈したものであった。凡そここを上下する婦人といふ婦人にお腹の大きくないのはなく、又云ひ合わせたように悉(ことごと)く赤いスエターを着ている。右と左の手には漸く歩けるやうになった年子の子引ひている。その後からはゾロリゾロリと四五人か五六人の子供は附いてゆく。斯うした光景と情景とは約十二三年に亘(わた)ってメーン街路に展開された」 この記事に記載の出生数を文献によるデータも加え、1910年から20年までまとめると表1の通りとなる。 「加州邦人七万」(1919年12月12日号)  「加州衛生局の発表によると、カリフォルニア州現在…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第11回(前編) 写真結婚の隆盛

前回は『北米時事』の歴史をテーマにお伝えした。今回は、1910年頃から隆盛を極めた写真結婚について、1918年から1920年頃の記事を紹介したい。 1900年に入った頃から、アメリカで日本人に対しての排日運動が激しくなった。日本政府はこれに対応して、1908年に日米紳士協約を米国と締結した。この協約によって日本人の米国移民が制限され、既に米国に移住していた日本人労働者の一時帰国も難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。この写真結婚によって、多くの日系2世が誕生することになった。 写真結婚の様子 1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で、写真結婚の様子が次のように語られている。 「1907年が渡米移民の最後の年となった。即ち日米紳士協約がこの年の7月1日から実効を生ずることゝなったからである。然るに引き続いて写真結婚が可能となった為め、1908年以降、船毎に花嫁さんが押し寄せスミス・コープは時に珍奇妙々の悲喜劇を演じた。 船に満載された花嫁さんがデッキに寄って悉(ことごと)く申し合わせたやうに懐中の小照を覗いては埠頭の人混みを物色しておる。又た埠頭に出迎へと出掛けた婿殿達は婿殿達でこれ又た各自のポケットを覗いてはデッキの上の花嫁群をあれかこれかと探索してをる。この光景は何とも例へやうの…

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第10回(その5)『北米時事』の歴史—日米大戦突入時での記事と最後の発行

前回は『北米時事』での有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したが、今回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。 日米大戦突入 1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。 大戦開始の翌日に発行ができた理由は、文献に「北米時事社の編集責任者代理となった日比谷隆美氏がアメリカン・ジャパニーズ・コーリア紙(週刊英文紙)のジミー坂本氏に依頼して、ワシントン州検事総長の諒解をもらった」からだと記述がある。 社員による発行継続 日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。当時の発行を続けた社員ら状況と、その思いが伝わる内容だ。 「社告」(1942年1月2日号) 「米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思ひ、その筋の諒解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。 其の間本社は資産一切を封鎖されましたので直ちに特別ライセンス下附方を願ひ出し…

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