新舛 育雄

(しんます・いくお)

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第11回(後編) 写真結婚の隆盛

第11回(前編)を読む >> 日本人の高い出生率 前掲の1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で出生者数が激増した頃の様子をシアトル帝国領事館による同館領域内在住日本人についての数字を元に次のように語っている。 「1910年頃から約10年間は産婆成金の露出した時代で月々に生まれる同胞子女の数は素晴らしい数に上った。統計によると1910年の出生総数は267名であったものは、逐年増加して376名,461名,402名,477名,509名-といふ風に上がって1919年には854名に達した。 実に一ケ月の出生児が平均71名強といふのであるから産婆成金が露出するに不思議はないのである。実際この時代のメーン街は偉観を呈し、異観を呈したものであった。凡そここを上下する婦人といふ婦人にお腹の大きくないのはなく、又云ひ合わせたように悉(ことごと)く赤いスエターを着ている。右と左の手には漸く歩けるやうになった年子の子引ひている。その後からはゾロリゾロリと四五人か五六人の子供は附いてゆく。斯うした光景と情景とは約十二三年に亘(わた)ってメーン街路に展開された」 この記事に記載の出生数を文献によるデータも加え、1910年から20年までまとめると表1の通りとなる。 「加州邦人七万」(1919年12月12日号)  「加州衛生局の発表によると、カリフォルニア州現在…

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第11回(前編) 写真結婚の隆盛

前回は『北米時事』の歴史をテーマにお伝えした。今回は、1910年頃から隆盛を極めた写真結婚について、1918年から1920年頃の記事を紹介したい。 1900年に入った頃から、アメリカで日本人に対しての排日運動が激しくなった。日本政府はこれに対応して、1908年に日米紳士協約を米国と締結した。この協約によって日本人の米国移民が制限され、既に米国に移住していた日本人労働者の一時帰国も難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。この写真結婚によって、多くの日系2世が誕生することになった。 写真結婚の様子 1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で、写真結婚の様子が次のように語られている。 「1907年が渡米移民の最後の年となった。即ち日米紳士協約がこの年の7月1日から実効を生ずることゝなったからである。然るに引き続いて写真結婚が可能となった為め、1908年以降、船毎に花嫁さんが押し寄せスミス・コープは時に珍奇妙々の悲喜劇を演じた。 船に満載された花嫁さんがデッキに寄って悉(ことごと)く申し合わせたやうに懐中の小照を覗いては埠頭の人混みを物色しておる。又た埠頭に出迎へと出掛けた婿殿達は婿殿達でこれ又た各自のポケットを覗いてはデッキの上の花嫁群をあれかこれかと探索してをる。この光景は何とも例へやうの…

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第10回(その5)『北米時事』の歴史—日米大戦突入時での記事と最後の発行

前回は『北米時事』での有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したが、今回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。 日米大戦突入 1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。 大戦開始の翌日に発行ができた理由は、文献に「北米時事社の編集責任者代理となった日比谷隆美氏がアメリカン・ジャパニーズ・コーリア紙(週刊英文紙)のジミー坂本氏に依頼して、ワシントン州検事総長の諒解をもらった」からだと記述がある。 社員による発行継続 日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。当時の発行を続けた社員ら状況と、その思いが伝わる内容だ。 「社告」(1942年1月2日号) 「米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思ひ、その筋の諒解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。 其の間本社は資産一切を封鎖されましたので直ちに特別ライセンス下附方を願ひ出し…

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第10回(その4)『北米時事』の歴史—有馬純義

前回は『北米時事』女性社員の投稿記事と5000号記念の時の記事及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたが今回は日本人会会長であり、新聞記者でもある有馬純義が書いた記事を紹介したい。  日本人会長としての有馬純義 有馬純清(すみきよ)が社長を退いた後、長男の有馬純義(すみよし)が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーのためにも活躍した。 1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に有馬純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。 「有馬氏帰国」(1938年3月4日号) 「本社有馬純義は予て帰国準備中であったが、本日出帆の氷川丸にて家族同伴にて約3ケ月の予定で帰国」 「有馬氏へ留任勧告」(1938年3月5日号) 「昨日開いた日商臨時役員会で名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏の列席を求め、新たに選ばれた有馬会長辞任の件につき協議して、留任を勧告する事に決し、直ちにバンクーバーに今朝入港する氷川丸までその旨打電」 有馬純義は氷川丸船中からこの時の心境を次のように語っている。 「北米春秋:離愁」(1938年3月8日号)  「僕の出発に当たり、二三の人々から『日本人会…

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第10回(その3)『北米時事』の歴史 — 女性社員の投稿と5000号記念

前回は『北米時事』の寄稿者の様子と社員についての記事を紹介したが今回は女性社員の投稿記事と5000号記念及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたい。 女性社員の投稿記事 高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」(1918年3月29日号) 「私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望致したい事がある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油がきれては廻せないから如何に聖職である教師も御飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私達はそれに報ゆるに援助を以てしなければならないだろうと考える。 (中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左手のテーブルの上に小新聞ばかり六七種もあったのを見た。しかもこの紙を除き同シアトルで発行する新聞が二三種もあったように記憶する。このような小さい新聞ばかり発行する必要はないだろうと考える。それをもし合同して一つの物にしたら立派な新聞ができて経済的にも有益なものになる。 (中略)当地には日本人会というものがあって、有給幹事などを置いて同胞の統一を計っていると聞いている。所々に日本人会を置く費用を以て新聞記者を増し、同胞のいる場所には必ず記者をおき、現日会幹事のする仕事をさしたらどうか。同胞が直接日会費を納める金で少し高い新聞を購読することにする。 領事の権威を以…

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