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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第16回(後編) 帰米日系市民協会の活動

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帰米日系市民協会の活動

「日系の料理講習」(1934年8月28日号)

「帰米市民協会女子部では9月から毎木曜日光楼に於て日本料理講習会を開く」

文献によると、この帰米市民協会女子部は1932年の帰米日系市民協会創立後2週間後の臨時総会により設置された。

「帰米日系の秋の大演芸会」(1935年10月28日号)

「帰米日系市民協会は来る11月3日日本館で大演奏会を催すこととなって居る。プログラム: 一. どんなこんな物語(喜劇二幕); 二. 踊り、英語小品; 三. やくざ仁義(時代劇三幕四場); 四. 帰米日系チョイス、新舞踊、合唱(帰米日系女子部)尺八、三味線合奏; 五. バイオリン演奏(森田門下生)バンジロー演奏、独唱、タップダンス、尺八、琴合奏; 六. 喜劇 私のあなた」

「帰米日系新役員」(1938年10月4日号)

「帰米日系市民協会では役員改選を行い新役員決定(会長)柳田光之、(副会長)三原実、(幹事)菊池玲、井口実、狩野信義、二上タエ子、岡野多美子、書記川口美枝子、(会計)古川義一、(顧問)狩野輝光、海田厳、国本幸雄、黒川幸一郎、原田義人」

顧問となっている狩野輝光氏は2002年秋に発行された『北米報知』創刊百周年記念号によると、帰米二世のひとりで、1930年に日本の旧制中学を卒業後にシアトルに戻り、1959年まで『北米報知』の編集長を務めた人物である。

「帰米日系総会」(1938年10月14日号)

「帰米日系市民協会では来る11月16日午後1時よりに日本館に於開催される大演芸会に続き、臨時総会開催。全会員の出席を求むと。尚総会後バラードにて会員相互の親睦を図る意味でアイススケートのパーティーを催す故、会員は右総会開催中事務所にて無料入場券を受取られたいと」

「帰米日系の弁論大会」(1939年1月17、27 日、2月4、7日号)

『北米時事』1939年1月17日号

「帰米日系市民協会では来る2月11日紀元節及び戦記第三年目の奉を祝賀すべく『弁論と映画の夕べ』を催す事に決定した。(中略)盲目の帰米青年や留学中の女性を加えて10名の弁士が決定発表された。

柳田光之、柳田春雄、菊池玲、三宅実、釜月清子、海田義夫、栓井愛、岩見冠一、太田秀男(中略)

弁論審査員は有馬純義(北米時事社社長)、伊藤謙治(学生倶楽部)、狩野輝光(北米時事社)、中村壽郎(としお)(日本人会青年部長)、藤平芳太郎、(日本人会教育部長)前野邦三(日本人会前会長)、村野宣志となった。

又次の同胞商店より賞品の寄贈があった。三輪堂、相模屋、田妻十仙店、旭グラージ、玉壺軒、日光樓、錦華樓、メーン街サービスステーション、西本商店、ノースコースト貿易会社、ウエストコースト印刷所、柏木洋服店、ジャクソン靴店、千原時計店、木庭商店、アンビロカフェ、ジャクソンカフェ、エバーグリーンターバン」

この弁論大会は有馬純義はじめ、日本人会やシアトルの有志達が審査員となった。1月27日号によると日本人会から最優秀弁論に優勝杯が送られた。また、多くの日本人街の商店が寄附を行い、帰米日系市民協会の活動をシアトル在留日本人皆が応援していたことが伺える。

「帰米日系の野遊会」(1939年6月10日号)

「帰米日系市民協会では来る18日(日曜日)、ベインブリッジ島クリスタルスプリング水野氏別邸にて恒例のピクニックを挙行する事に決定。既に切符(フェリー、バス代として50仙)を売出して居るが当日は晴雨に係らず午前8時コールマンドッグ発のフェリーにてウインスローに渡り直ちに連結直行バスに便乗する予定であるが種々競技の他、庭球、卓球、水泳、ボート、夜間のダンス等もある予定で景品、リフレッシュメントは充分に用意するので会員と否とに係らず前記の切符持参の上参加され度いと」

「帰米の総会」(1939年9月15日号)

「17日、日商ホールにて秋季定期総会を開催、役員改選その他あり。会員の出席を希望して居る」

「帰米の演芸会」(1939年9月27日、11月1、15日号)

「11月19日、日本館にて基金募集演芸会を挙行、日商の年末救済基金の一部に寄付。喜劇、股旅もの、スケッチ『青春』、股旅物等。入場料、大人40仙、学生25仙、小人15仙、(中略)スケッチ『青春』第一景=帰米のボーイズが只今エス・ワイ・ケーの埠頭に到着した。第二景=パシフィックスクールで盛んに与太る。第三景=スクールボーイを追はれて自炊生活をして居る」

『北米時事』1939年11月15日号

この『青春』という演劇は、帰米二世は日本から船に乗りやってきてシアトル港に到着し、パシフィックスクールに通学するが、授業についていくことができず、遂にスクールボーイを辞めて自炊生活に入るという、帰米二世のアメリカでの生活の実態を劇にしていると推測される。

「帰米の座談会」(1939年12月8日号)

「帰米日系市民協会は来る10日午後2時より日商ホールに於て 会員相互の親睦並びに向上発展を計るため忘年座談会を開催。会員は勿論、一般帰米日系市民の参会を望むと。閉会後遊戯などもある由」

「帰米日系市民協会で弁論と映画の夕」(1940年3月27日号)

『北米時事』1940年3月27日号

「昨年の紀元節当日『弁論と映画の夕』を催して好評を博した帰米日系市民協会では、本年再び来る5月4日(土)午後8時から、日本館に於て同じ催しを行ふ事に決定し、目下弁士を募集中であるが、資格は帰米日系市民であること、其他は男女の如何を問はず論旨も7分間である。出場希望者は同胞会新事務所(メーン街1045)又は本社内狩野まで。審判者も決定次第発表されるが、映画は『東海の顔役』であると」


帰米二世だった筆者の父

筆者の父、與(あたえ)は帰米二世だった。しかし一般的な帰米二世とは多少違う経歴だった。與は1914年シアトルで生まれ、アメリカと日本の両方の国籍を有する二重国籍者だった。1921年、7歳の時日本へ帰国し、日本の小学校へ3年間行った。

1924年の排日移民法適用前に再渡米し、ワラワラ市公立学校へ入学、1928年にはシアトル市公立学校へ転校した。しかし父親の與右衛門の急死で1929年に再度、日本へ帰国し、日本の中学、大学へ行った。

1935年に大学を中退し帰米し、1941年2月までシアトルでアラスカ鉄道の運転手として働いた。しかし日米戦争の危機を察した日本の家族からの強い帰国要請があり、やむなく日本へ帰国した。

このように與は日本とアメリカを何度も渡り歩いた経歴のため、英語も日本語も堪能で、2つの国の生活、文化も充分会得していた。しかし大戦という悲劇に遭い、戦後は日本の瀬戸内海の島の小学校教員でその力量を充分発揮できないまま、一生を終えた。(詳細は筆者の連載「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトルー」を参照ください。)
 

まとめ

帰米二世はアメリカで生まれたにも拘わらず幼少時に日本へ帰国し、日本での生活が長く、帰米しても英語をはじめ、アメリカの文化に中々馴染めなかったと推察される。このような環境下で帰米日系市民協会は日本との橋渡しの役を果たそうと数々の行事を行い、日本の文化を紹介し、日系人社会の融和のために懸命に活動したことがよく伺える。

次回は1939年頃に日本を初めて訪れた二世女子日本見学団の記事を紹介したい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

 

参考文献

竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
在シアトル日本国総領事館『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年
在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年8月1日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

Kibei JACL Nisei in Japan North American Times prewar Seattle

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。