『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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第11回(後編) 写真結婚の隆盛

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日本人の高い出生率

前掲の1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で出生者数が激増した頃の様子をシアトル帝国領事館による同館領域内在住日本人についての数字を元に次のように語っている。

「1910年頃から約10年間は産婆成金の露出した時代で月々に生まれる同胞子女の数は素晴らしい数に上った。統計によると1910年の出生総数は267名であったものは、逐年増加して376名,461名,402名,477名,509名-といふ風に上がって1919年には854名に達した。

実に一ケ月の出生児が平均71名強といふのであるから産婆成金が露出するに不思議はないのである。実際この時代のメー…

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第11回(前編) 写真結婚の隆盛

前回は『北米時事』の歴史をテーマにお伝えした。今回は、1910年頃から隆盛を極めた写真結婚について、1918年から1920年頃の記事を紹介したい。

1900年に入った頃から、アメリカで日本人に対しての排日運動が激しくなった。日本政府はこれに対応して、1908年に日米紳士協約を米国と締結した。この協約によって日本人の米国移民が制限され、既に米国に移住していた日本人労働者の一時帰国も難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。この写真結婚によって、多くの日系2世が誕生することになった。

写真結婚の様子

1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で、…

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第10回(その5)『北米時事』の歴史—日米大戦突入時での記事と最後の発行

前回は『北米時事』での有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したが、今回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。


日米大戦突入

1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。

大戦開始の翌日に発行ができた理由は、文献に「北米時事社の編集責任者代理となった日比谷隆美氏がアメリカン・ジャパニーズ・コーリア紙(週刊…

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第10回(その4)『北米時事』の歴史—有馬純義

前回は『北米時事』女性社員の投稿記事と5000号記念の時の記事及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたが今回は日本人会会長であり、新聞記者でもある有馬純義が書いた記事を紹介したい。
 

日本人会長としての有馬純義

有馬純清(すみきよ)が社長を退いた後、長男の有馬純義(すみよし)が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーのためにも活躍した。

1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に有馬純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。

「有馬氏帰国」…

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第10回(その3)『北米時事』の歴史 — 女性社員の投稿と5000号記念

前回は『北米時事』の寄稿者の様子と社員についての記事を紹介したが今回は女性社員の投稿記事と5000号記念及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたい。

女性社員の投稿記事

高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」(1918年3月29日号)

「私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望致したい事がある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油がきれては廻せないから如何に聖職である教師も御飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私達はそれに報ゆるに援助を以てしなければならないだろうと考える。

(中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左…

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