新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。

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最終回 與の再渡航と家族のその後

前回は、與右衛門死後のアキの奮闘と姉妹の再渡航についてお伝えした。今回は、長男、與(あたえ)の再渡航と家族のその後についてお話し、最終回としたい。


與の再渡航

與は、父親の與右衛門が死亡したため、1929年2月に母親のアキと日本へ帰国した。その後は蒲井で生活し、日本の学校へ通った。子供の頃に一旦は日本へ戻り小学校へも通っていたバイリンガルの與には、日本の学校生活も平気だった。帰国の翌年1930年4月に、本土にある柳井中学(現在の柳井高校)に入学した。柳井中学は山口県でも有数の文武両道の県立中学だった。與は、英語はやはり抜群の成績だった。国語や他の科目も平均以上だった。柳井中学では柔道部主将となり、県大会などで活躍した…

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第11回 アキの奮闘と姉妹の再渡航

前回は與右衛門の不慮の事故死とシアトルから蒲井への悲しみの帰国についてお伝えした。今回は妻のアキがその悲しみから立ち上がり、再度シアトルへ向かい、姉妹も再渡航したことをお話ししたい。

アキの理髪業の再開

與右衛門の死後、アキは空虚な悲しみの日々が続いた。アキは、このまま蒲井にいて田畑を耕していてもしかたないと考えはじめた。與右衛門が亡くなって2年の歳月が過ぎた頃、もう一度シアトルへ行き、一稼ぎしようと決断した。

アキは再起を期して、1931年1月の正月明けに、蒲井の大勢の人に見送られ単身でシアトルへ向かった。出発当日の朝、仏壇に参り、與右衛門に再びシアトルへ行くことを伝えた。與右衛門が喜んで背中を押してくれてい…

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第10回 無念の事故死と悲しみの帰国

前回は與右衛門を支えた日本人会と與右衛門がホテル開業を前にした日々の様子についてお伝えした。今回は、與右衛門の無念の事故死を遂げることをお話ししたい。

不慮の事故に遭遇

1928年12月2日、日曜日の朝。與右衛門は、自宅のニューセントラルホテル(地図右下)を出ていった。しばらく歩いてオクシデンタル街に購入したホテル(地図左)の見回りに行った。この日は翌日月曜日からのホテル開業を控え、準備しておかなくてはならないことがいくつかあった。與右衛門は、その頃には夜寝るのも遅く、少々疲れ気味だったが、ホテル開業という夢の実現が目の前に迫るうれしさで、その疲れを忘れてしまっていた。

與右衛門がホテルに着くと、新しい壁の塗装…

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第9回 日本人会と最期の日々

前回は山口県からの移民と郷里送金のこと、與右衛門が蒲井に新築の家を建てたことをお伝えしたが、今回はシアトルで與右衛門を支えた日本人会と與右衛門の最期の日々についてお伝えしたい。


與右衛門を支えた日本人会

シアトルという異国の地で與右衛門が理髪業に成功し、更にホテル業へと飛躍できた背景には、日本人会という強力なコミュニティの存在があった。シアトルに居住する日本人は、1899年2月に日本人会を発足した。当初は個人会員制であったが、1907年に県人会や理髪業組合等の代表者が集まる組織としてワシントン州日本人会と改名した。1910年には別組織としてシヤトル日本人会が発足したが、1912年4月にワシントン州日本人会とシヤトル日…

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第8回 郷里送金と家の新築

前回は與右衛門のホテル業への飛躍についてお伝えしたが、今回は與右衛門の出身地、山口県についてと郷里送金、そして蒲井の家の新築の様子についてお伝えしたい。


山口県からの移民

與右衛門の出身県の山口県は全国的にも海外移民の多い県である。海外移住資料館史料の「都道府県別移住者統計」によると1885年から1894年、および1899年から1972年の間で山口県の海外移住者数は57,837人で、広島県109,893人、沖縄県89,424人、熊本県76,802人についで、全国4位になっている。

文献によると、山口県における1926年現在の海外在留者数は、玖珂(くが)郡が最も多く9,893人、次いで大島郡が6,249人、與右衛門の…

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