ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/823/

自己アイデンティティは日本人の子孫 (英語)

(英語)I*:オレゴンの二世や三世の人々は、自分たちをどう呼んでいますか?「日系アメリカ人」、「アメリカ人」、「ニッケイ」、どんなように呼んでいるのでしょう?

わかりません。彼らが友人や白人と一緒に居る時、自分たちをどのように呼んでいるのかは、わかりませんね。

I:イナハラさんご自身はいかがでしょう?初対面の人にはどのように言いますか?

もし聞かれれば、私は日本人の子孫です、と言いますよ。でもたいていどこに行っても、日本人だと思われます。そして、「日本から来たのですか?」と聞かれます。私を知らない人は、私を日本から来た日本人と見なしますね。私が仕事で会議などに出かけると、いつもそう思われます。

I:日本から来たのですか、という質問に、気を悪くされますか?

いいえ。そういうものだと思って、受け入れていますよ。

I:日本人はどうでしょう?日本人の医師たちも、イナハラさんを日本人と思っているようですか?

いえいえ。そうは思いません。日本人から見て、日系人は明らかに違って見えます。そしてまた逆に、私たち日系人も、日本人を見れば彼らが日本人であることはすぐにわかります。

*「I」はインタビュワー(アケミ・キクムラ・ヤノ)


ハワイ アイデンティティ 日系アメリカ人 日系 オレゴン州 アメリカ合衆国

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)

キシ・バシ

日本人でもありアメリカ人でもある(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

沖縄文化の理解(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

共感する米国的な価値観(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

母親から受け継いだモットー(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。