ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/822/

和菓子職人だった父 (英語)

(英語)和菓子職人だった父を想い、父が日本のどこで修行したのか調べようと思いました。ちょうど日本に住む私の従兄弟も、父が働いた場所をたどろうとしていました。私が最後に日本を訪れた際、私たちは、父が岐阜市の「風月」という饅頭屋で働いていたことを突き止めました。父の作る饅頭や和菓子は、本当に洗練されていたので、父が京都でも修行したのではないかと考えています。父が作っていたような菓子は、ロサンゼルスのリトル東京では見たことがありません。 父は、ありとあらゆる種類の饅頭、和菓子を作りました。桃やりんごのような様々な形をした菓子を作り、色づけをし、菊形の菓子も作りました。羊羹の中に絵柄を描くこともありました。さらには、饅頭以外にもカステラや餅はもちろんのこと、かき餅などあらゆる菓子を作っていました。

父の菓子屋のことも記憶しています。ブロードウェイとタコマ通りにあったのですが、いまだに住所も覚えていますよ。「1510ブロードウェイ」でした。私が最後にタコマに行ったのは、1月前、タコマ同窓会に参加した時です。菓子屋のあった場所には、今ではタコマ・コンベンションセンターが建っているのですが、当時の店のことはよく覚えています。ショーケースが3、4台あって、その中はいつも菓子や饅頭で埋め尽くされていました。当初、私たちは店の2階のホテルに住んでいたのですが、その後、借家に住むようになりました。もちろん当時の私は、いつでも父の作った饅頭を食べることができて、それは本当に美味しかったですよ。

父はオレゴンで引退しましたけど、きっと何かしたかったのでしょう。ポートランドで再び店を開きました。父は饅頭と羊羹を少量作り、確か5、6年ほど店を続けることができました。不運なことに、高速道路建設のため、父の店は立ち退かなくてはならなくなったのです。父は、店をたたむことを余儀なくされ、その後、家族のために家で菓子を作るようになりました。私たち家族は、父の作る最高に美味しい饅頭を食べ慣れてしまっていたので、どこかに出かけて菓子を買っても、全然満足できなかったですね。贅沢なことですよ。


日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)