ディスカバー・ニッケイ

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日本からアルゼンチンへ

叔父がこちらにおられたんですから、ロサリオに。自分の平良の人は、みんな(移住するなら)アルゼンチンという気持ちがありましたから。こちらに、あの叔父さんが成功しておられましたから。成功して帰ってこられて、那覇に4つの家を、那覇のセンター(中心)で4つの家を買って、裕福に暮らしておりました。1934年です。那覇から、那覇港から神戸に行って、そこで1泊したはずです。リオデジャネイロ丸です。そしてブラジルに行ったら、バナナをうんと積んで。みんな、私の叔母さんと、4名だけ、ノー、11名おりました。サントスから乗った。同じ船に、サントスからモンテビデオを越して、ブエノスアイレスに着いたんです。みんなそうでした。そういうふうに来たんです。アルゼンチンで降りたんです。また、ブラジルで降りて、そこから引っ越してくる人もおりました、先輩には。45日間かかっておりました。みんなそういうふうにして来たんです。


アルゼンチン 移住 (migration)

日付: 2006年11月28日

場所: アルゼンチン、ブエノスアイレス

インタビュアー: タケシ・ニシムラ、リカルド・ホカマ

提供: アルゼンチン日系センター

語り手のプロフィール

大正6(1917年)年11月30日、沖縄県大里村平良生まれ。旧制の第一中学に学ぶ。サンタフェ州ロサリオ市で洗濯業、ブエノスアイレス州パチェコ地区、モレノ市で花栽培を営み、現在は生花店を営む長男夫婦とともに、カセーロに居住。 (2006年11月28日)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンへの渡航(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンでの初めての仕事(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

スペイン語の学習(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンと正反対の日本(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

日本で感じる居心地の悪さ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンは私の祖国(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

世代の格差(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

日系社会では世代交替が必要(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

アルゼンチンでの差別(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

高木一臣

日系アイデンティティ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

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