(英語) 私たちはアメリカの学校へ行った後日本の学校にも通っていました。そして土曜日は1日中日本の学校があって、日曜日は教会に通っていました。だから毎日何らかの形の学校に行っていたことになりますね(笑)。学校では子供用の行事がたくさん企画されていましたし、みんな参加していたように思います。友達のお父さんは一応警官だったのですが、確か9時くらいの日没の時間になると、若い人たちがみんなちゃんと家に帰り着いているか確認して回っていたんですね。子供達が非行に走るのを防ごうということですね(笑)。そこでの警官の役目というものがどんなだったのか、よくわかりませんね。私の父は肉屋でした。
(クリスタル・シティでの生活環境に関して言えば)何と言うか、私が感じていたことや読んだこと、それから姉たちの話や口調から判断すると、ずいぶん健全な環境だったように思います。私たちはそこに強制収容されていましたし、そのことはゆるぎない事実です。強制収容されたことへの苦い思いも確かにある訳ですけれど、でも私たちはそれをどうにか乗り超えて、家族や地域社会と密接でとてもきちんとした生活を送ることができていました。それはミニドカの収容所では不可能だったことですね。
日付: 1998年5月27日
場所: 米国、ワシントン州
Interviewer: ロリ・ホシノ
Contributed by: Denshō: The Japanese American Legacy Project