ディスカバー・ニッケイ

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政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

(英語) 真珠湾攻撃後に日系人が隔離され収容所に入れられた最大の原因は、私たちに力がなかったからだと思います。私たちの両親の世代は、日系人に投票権がありませんでしたから、政治的な力が全くなかったんですね。また市民権が得られなかったので、アメリカ市民ではありませんでしたから、白人家庭に比べると政治への関心も薄かったんです。ですから一般の白人家庭みたいに、夕食の席で市長選や上院議員選挙で次は誰に投票するかなんて話は出ませんでした。別に自分達の力が及ぶ訳でもなかったので、そんな話はしなかったわけです。もしかすると他の日系人の家庭ではしていたかもしれませんが、少なくとも私の家庭ではありませんでした。そんなことで、私たちは一票の力がどういうものかをほとんど知らずに育ったんです。(米政府が)どの権力基盤からも反対されずに私たちをすんなり収容所に入れることができたのも、私たちを代表する(日系)人が権力の中枢、特に政治の中枢にいなかったことが大きな原因になったと思います。


差別 政府 対人関係 政治 第二次世界大戦

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アイコ・ヨシナガ・ハージックは1924年、カリフォルニア州サクラメントに生まれました。熊本県出身のヨシナガ一家は、1919年に渡米し、世界恐慌の頃にカリフォルニア州ロサンゼルスへ引っ越しました。

第2次大戦中、初めは夫の家族とともにマンザナーへ収容されていました。その後、夫と離れ、生まれたばかりの娘と共に、実父母の収容されていたアーカンソー州ジェローム収容所へ転送されました。1944年、ヨシナガ一家は収容所を出てニューヨークへ移り住みました。その後、夫と離婚しますが、2世兵士と再婚しました。アイコは、占領下の日本で従軍することになった2番目の夫とともに、日本へ移り住みました。そこで夫の同僚であるジャック・ハージックと出会い、その後1978年に彼と結婚しました

アメリカ帰国後、Asian Americans for Actionの活動に参加するようになりました。補償運動の際は、夫ジャックとともにワシントンDCの国立公文書館で資料を集め、とても重要な役割を果たしました。公文書館からの資料はフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ、ゴードン・ヒラバヤシの判決を取り消すための再審請求(coram nobis)でも重要な証拠としても提示されました。また、アイコはCommission on Wartime Relocation and Internment of Civilians(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の主要な調査員として任命され、法務省のRedress Administration(補償運動管理局)で補償金の受け取りが可能な個人を特定などに携わりました。 

2018年7月18日、93歳で亡くなりました。(2018年7月)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士