ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

グレイス・リツ・ウエハラ

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(英語) 補償運動の達成に最も重要な貢献をしたのは、教育です。この国のほとんどの人は、我々日系人について何も知りませんでした。だからこそ、教育課程が補償運動達成への重要な基盤を作ったのです。日系人に何が起こったか、教科書にも書いてありませんでした。誰も強制収容があったことを知らなかったのです。その事実は寓話であるかのように、「そんなのは作り話だ」という態度を取るか、そうでなければ人々は、「母」なる母国がそんなことをする訳がない。「お母さんは悪いことなどしないものだ」という観点から強制収容を否定するのです。ある意味、ホロコーストについて「そんな事実はない。ユダヤ人のでっち上げだ」と言う人がいるのと一緒です。我々日系人についても同じような見方をされたのです。


リドレス運動 第二次世界大戦

日付: 1998年8月28日

場所:

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

グレイス・リツ・ウエハラ氏(旧姓:カネダ)は1919年7月4日、カリフォルニア州ストックトンで生まれました。第二次世界大戦中、ウエハラ一家はストックトン集合センターに一時的に収容された後、アーカンソー州のローワー強制収容所に送られました。1980年代、ウエハラは米国日系人市民協会(Japanese American Citizen League)と協力し、戦時中の日系人強制収容に対する補償を求め、アメリカ政府に訴え続けました。

コチヤマ氏は、2014年6月22日、94歳で亡くなりました。(2014年7月)

ペギー・ニシムラ・ベイン

忠誠心の質問への返答(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

マーガレット・クロイワ

第二次世界大戦中の収容所(英語)

一世医師の娘

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

アート・シバヤマ

日系ペルー人ゆえに拒否された賠償金(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

スー・エンブリー

若かりし頃の視点 (英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

ミツオ・イトウ

カナダでの補償運動(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

スー・エンブリー

考え方の変化(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

制度の中で(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

スー・エンブリー

正義への戦い(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)