ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1164/

日本語を知る重要性を更に認識(スペイン語)

(スペイン語)当初からラティーノたちと交流はあり、90年代の前半はほぼみんなが仕事に就いていましたし、仕事が生活でした。その結果、日本語や日本の文化(習慣や価値観等)については、みんなあまり理解していませんでしたし、その必要性も感じてませんでした。 当然そうした状況がいつまでも続くとは思えなかったので、私はいつもペルー人の同胞たちには口うるさく、日本語を、基本的なことでいいから、勉強するよう呼びかけたのです。今の仕事が良くても、解雇されたときには日本語ができないとその次の仕事につなげられないと警告したのです。 もう当時から、企業による外国人に対する日本語レベルの要求は高まっていました。はじめは、基礎的な会話力だったのですが、次第に職場での伝票記入や業務報告をかけるぐらいの日本語力も求めるようになりました。要求は厳しくなっていたのですが、長年同じ職場にいたラティーノ労働者たちはそこまで日本語を勉強しなくてもいいとかなり安心し切っていたのです。 I*: そのようでしたか。 でも、当時は企業内通訳も多かったのです。だから困ることもなく過ごせたのです。 * “I” は、インタビュワー (Alberto Matsumoto)


ハワイ 日本 日系アメリカ人 言語 日系 アメリカ合衆国

日付: 2009年3月24日

場所: 日本、東京都

インタビュアー: アルベルト・松本

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ペルーで出生、1980年頃から約10年電子機器等の組立・修理をするELECTRONICA MORUMBI S.R.L.という会社を経営。1990年9月来日、日本のレベルアップを図るとともに当初はボランティアとして大和市の国際化協会に登録。その後、通訳・相談員として活動、同様にAMDA医療情報センターでも従事する。

2001年から㈶産業雇用安定センター神奈川支部で南米日系就労者の通訳・相談員を勤め、2002年から2005年までは同機関のTOKIO NIKKEIS(上野・新宿職安)で勤務。その他、行政書士事務所「双葉事務所」、コミュニティー内の企業、そして現在は、海外日系人協会の委託事業「日系就労者就労準備研修」の通訳員としても従事。

大和市では、地元のFM YAMATOのパーソナリティーも務め、市主催の「多文化共生会議」及び「地域福祉計画策定委員会」の委員でもある。 (2010年7月)

マーガレット・ナルミ

野茂のリスク(英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

野球の殿堂(英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

1995年の野茂旋風

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

ドジャースがMLBにもたらした国際化の波

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

エーシー・コオロギ

ウォルター・オマリーの哲学(英語)

ロサンゼルス・ドジャース元アジア部門部長

ジーン・玻満子・シュナイダー

アメリカへの移住して良かったこと

戦争花嫁(1925年生)

フレッド・Y・ホシヤマ

「ニッケイ」の定義(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

上杉 武夫

米国に残り市民権を取得する決意(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉町がふるさと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に移住した理由(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に住むメリット(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)