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父はノースダコタ州マイノットでカフェレストランを経営 (英語)

(英語) 父はマイノット市の駅すぐ近くにある「USカフェ」というレストランを経営していました。電車が駅に着くと、乗り換えをする人達などが軽く何かを食べるので、父のレストランはとても流行ったそうです。乗客達はわざわざ電車を降りて食事をとりに来たのです。レストランは共同経営者のトオヤマさんと父で24時間営業していて、とても忙しかったようです。彼らは日夜一生懸命に働きました。

でも「USカフェ」には、(私には)よくわかりませんが、きっと・・・様々な出来事があったと思います。 1995年私がたまたまノースダコタ州のマイノットに行った時、ホテルのフロントで掃除をしている人と偶然話をしたときの事です。私が「ロサンゼルスから来たのですが以前はここに住んでいて、父が「USカフェ」を経営していました」と話すと、その女性は「あら、知っているわ、覚えている、覚えているわよ」と言うのです。ですから、昔から住んでいる人は知っているのですね。そのフロントを撮った小さな写真がありますので、後でお見せします。現在レストランはなくなってしまい、そのビルはオフィスビルに変わっています。


マイノット ノースダコタ州 レストラン (restaurants) アメリカ合衆国

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジャニス・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

Miko Kaihara
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ミコ・カイハラ

FBIによる強制家宅捜索と父の逮捕(英語)

(1924年生)美容師、第二次大戦中アリゾナ州ポストンに収容

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