ディスカバー・ニッケイ

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良い助言を受けて (英語)

(英語) 父の担当医は、ウィリアム・J・ノリスさんという方で、グッド・サマリタン子供病院に勤めていました。とても親切な先生で、私が子供だった頃、大きくなったら医者になりたいと言ったことがありました。するとノリス医師は、「君が医者になりたいなら、できる限りの手助けをするよ」と言ってくれました。彼は、「君は女の子だから…」というようなことは、一切言いませんでした。

とにかく、私は医学校の入学試験を受けた訳です。 最初の年は、南カリフォルニア大で女子の受け入れはなく、2年目には2人入学していました。それで私は、シカゴへ行きました。ストリッチ・ロヨラ・メディカルスクールに申し込み、女性は4名入学しました。サンフランシスコ出身が1人、私、そしてイリノイからの2人でした。

私は、ノリス医師と連絡をとっていましたので、卒業する時に、外科医になりたいと先生に伝えました。するとノリス医師は、「Sake、(当時ノリス医師は、私をこう呼んでいました)女性には、外科は相当難しいと思う。男性の医師から手術を受ける患者さんを紹介してもらわなければいけないからね。僕が君なら、まずは一般診療をやってみると思う。でももし、それでも外科医になりたいと思うのなら、その時こそ、僕は君の力になるよ」と言いました。

それで私は一般診療の道に進み、結果満足でした。皮膚とその周辺の治療や母子のケア、手術をすることもありました。そして医療の全ての側面を経験することができました。


教育 ジェンダー 医科大学

日付: 2005年3月31日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: グウェン・ジェンセン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

サヤカ・シゲカワ医師は、1913年1月6日、カリフォルニア州サウス・パサデナに生まれました。幼少期に両肺肺炎を患った父を見舞った時に、医師や看護師と知り合い、自らも医師になることを決意します。シゲカワ医師は、南カリフォルニア大学(USC)医学部準備教育課程を経て、ストリッチ・ロヨラ・メディカルスクールに入学しました。シゲカワ医師は、入学した女子医学生4名の中の1人でした。教授や同僚による性差別に負けず、学業に勤しんだシゲカワ医師は、卒業後ロサンゼルスで医師として働き始めました。

しかしながら、1942年3月1日、シゲカワ医師は、旧競馬場だったサンタ・アニタ強制収容所へ初期の収容者の1人として収容されました。ノーマン・コバヤシ医師とフレッド・フジカワ医師による誘いを受けて、シゲカワ医師は収容所内で患者の治療を始めました。シゲカワ医師は、強制収容されたことが苦痛となり、精神的に落ち込んでいましたが、医療に従事することで救われたのです。当初、彼女に許されたのは皮膚の治療だけでしたが、しばらくして、産科や他の医療にも携わるようになりました。

戦後、彼女は医師として働き続け、医院を開業し、現在も同じ場所で医師として働いています。産科医となった39年の間で、シゲカワ医師は2万人以上の赤ちゃんを取り上げ、その全ての母親の命も守りました。シゲカワ医師は、2013年10月18日、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

Isao Taoka
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田岡 功

移住地教育とパラグアイへの思い

パラグアイ駐日大使(1943年生)

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Paul Terasaki
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ポール・テラサキ

最も重要な功績としてマイクロテストの開発 (英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

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Toshio Inahara
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トシオ・イナハラ

イナハラ・シャント(英語)

血管外科医(1921年生)

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Edward Toru Horikiri
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堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

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Susumu “Sus” Ito
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ススム・“スス” ・イトウ

復員兵援護法を利用して博士号を取得(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

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Tom Yuki
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トム・ユキ

朝鮮戦争での戦闘参加を避けるため、ヨーロッパでの任務を希望(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

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Fumiko Hachiya Wasserman
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フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族の日系ルーツと価値観 (英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

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Mitsuru "Mits"  Kataoka
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ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

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Howard Kakita
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ハワード・カキタ

アメリカ生活への適応(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

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Frances Midori Tashiro Kaji
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フランセス・ミドリ・タシロ・カジ

医師の一日 (英語)

一世医師の娘(1928-2016年)

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Margaret Oda
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マーガレット・オダ

教育界における女性差別(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

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George Ariyoshi
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ジョージ・アリヨシ

舌足らずの話し方を直してくれた先生 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

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James Hirabayashi
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ジェームス・ヒラバヤシ

民族研究の内情 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

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Wally Kaname Yonamine
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与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

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Richard Kosaki
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リチャード・コサキ

第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

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