Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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世界のなかの日本と世界

フロリダの日本庭園とコスプレ-その1

アメリカのフロリダ州と聞いてなにを想像するだろうか。暖かい気候に包まれたビーチリゾートか。それともときどき訪れるハリケーンか。いや、最近ならニュースにもよく登場したケネディー宇宙センターかもしれない。最南端にあるキーウェストと文豪ヘミングウェイを思い浮かべる人もなかにはいるだろう。

そのキーウェストからさらに南のキューバまではわずか90マイル(145キロ)。東は大西洋、西はメキシコ湾に面した半島の形をした州は、同じアメリカの諸州のなかで日本からはもっとも遠く感じる。かつて移民としてアメリカに渡った日本人もほとんどが西海岸に集中しており、それに比べれば東部にはその足跡は少ない。

まして、南のフロリダにはそんなものはないだろう、多少アメリカに詳しい人や移民を研究している人でもそう思かもしれない。しかし、実はこの半島南部にかつて小さな日本移民のコロニーがあり、それがもとになっていまでは立派な日本庭園とミュージアムがあるのだ。

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フロリダにヤマト・ロード?

いまから24年前、私はフロリダの大西洋岸中部に位置するデイトナ・ビーチというまちで1年間暮らしていた。あるとき半島を南北に走るハイウェイ95号をマイアミまでドライブして南下した。マイアミまであと70キロくらいになったとき、ハイウェイと交差する道路の名前を示す標識に「Yamato Rd」と読めるサインを見た。

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「ヤマト・ロード?Yamato とは日本の大和のことだろうか、でもまさかここに大和はないだろう。インディアンの言葉じゃないか?」と、思った。それまで日本人移民の話など聞いたことはなかったし、フロリダにはセミノールというインディアンがいて、いまもその居留地があることは知っていたからだった。

それから数年して、再びフロリダを訪れたとき、例の標識を見た近くに、「モリカミ」と呼ばれる日本の美術品などを展示しているミュージアムと日本庭園があるのをだれかに教えられた。そして、あのときのYamatoが日本の「大和」であることがわかった。

モリカミはデルレイ・ビーチ(Delray Beach)というまちにあり、かつてここで農業を営んでいた森上助次なる日本人の名前をとってモリカミと名付けられたミュージアムであり庭園だった。

森上氏は生涯を独身で通し、他界する前に所有する土地をすべて地元に寄贈した。それをうけてミュージアムなどがつくられたと最初は聞いた。リゾート地として発展していったフロリダのこと、おそらく戦後にリゾートブームが起きて、森上氏の所有していた土地も高騰してひと財産を築いた。家族のいない彼はそれを寄付したのだろう。そんなふうに私は勝手に想像していた。

一方で、森上氏が現在の京都府宮津市の出身で、彼の功績によってデルレイ・ビーチ市と宮津市は姉妹都市の関係を結んだということは確認した。また、同市にはいまも彼の親戚が暮らしていることもわかった。

私は自分がフロリダに住んでいたということもあるが、なにより、どうして日本から遠く離れた、日本とはこれといった関係も想像できない地に1世紀も前に彼はやってきたのか、その暮らしはどんなものだったのか、また、彼の財産はいったいどんなミュージアムと日本庭園に形を変えたのかといったことに長年興味をもっていた。そして、機会があればぜひモリカミを訪れたいと思っていた。

今年の3月それがようやく実現した。その前にモリカミの正式な名称はThe Morikami Museum and Japanese Gardensとわかり、そのサイトをウェブで調べてみると、モリカミは1977年に開館し、地元パームビーチ郡などが運営、管理しているという。そして、3月末に「HATSUME FAIR」と呼ばれるお祭りがあることがわかった。HATSUMEは初芽であり、草木が芽を吹くころの祭りで、和太鼓や茶の湯など日本の伝統文化を紹介するイベントや展示が大々的に行われ、周辺からは多くの人たちが訪れるという。

また、そこには20世紀の初めに森上氏のほか日本人の移民17家族が入植し、Yamato Colony(ヤマト・コロニー)なる小さなコミュニティーを形成していたこともわかった。これがあのヤマト・ロードにつながったのだ。

幸いモリカミには、夫妻で副理事長の任にあるジェームズ三堀氏と三堀千栄子氏というここの歴史を知る2人がいた。彼らと何度かメールでやりとりをした後、いよいよ謎だったモリカミを2日にわたって取材をすることになった。

あのヤマト・ロードの標識はまだあるだろうか。どれほどのミュージアムであり、また、森上助次とは何者なのだろうか。十数年ぶりのフロリダと再びヤマト・ロードに出合うのを楽しみに、私は今回のアメリカ取材・調査の最初の地であるニューヨークを午前11時前に発ち約3時間半でフロリダの大リゾート地の一つ、大西洋岸のフォート・ローダーデールの空港に降りた。ここから車でデルレイ・ビーチへ向かうためだ。

その2>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年4月30日号)からの転載です。

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戦争によって、二つの祖国で彷徨う魂~ノー・ノー・ボーイを探した先にみえるもの-その3

>>その2

フィクションに事実から光をあてる

監督でありプロデューサーでもあるフランク・アベは、51年生まれの日系三世。両親は帰米二世で福岡県での生活経験もあり、その意味では日本とのつながり は強い。父親は10代のころ収容所にいた経験をもつ。アベ自身は、現在は地元キング・カウンティー郡政府のコミュニケーション・ディレクターをしている。

彼が最初にこの小説と出会ったのは73年で、その後CARPのメンバーと出会い、この小説と深く関わるようになり、しばらくしてシアトルに移った。 「ノー・ノー・ボーイ」と呼ばれた人々をはじめ二世の気持ちを理解したかったという彼は、2000年には戦時中に徴兵を拒否した日系人を取り上げた 「Conscience and Constitution」というドキュメンタリー映画を完成させた。

今回の作品では「ノー・ノー・ボーイ」というフィクションに描かれた世界とジョン・オカダを追うことで、日系人のアイデンティティに迫った。その方が真正 面からドキュメンタリーとして、「ノー・ノー・ボーイ」と日系人をとらえるよりも効果的だと判断したからだろう。事実、この小説にはよく見れば、さまざま な境遇や立場にある人間が登場し、多くの根本的な苦悩や疑問が詰め込まれている。

6月に映画が図書館で公開されてから数日後、シアトル市内のコーヒーショップでアベと会うことができた。そこはダウンタウンのはずれ、アジア系のショップ などが固まる地区の近くで、すこし高い所に位置している。アムトラック(鉄道)の鉄路がたどり着く、煉瓦造りの古びた駅舎と、その横に時計台が天を突くよ うに立っているのが見える。

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時代から取り残されたようでもある、このキング・ストリート駅は、小説のなかでも古ぼけた時代物としてイチローの目には映る。刑務所からシアトルに戻って きたイチローがバスを降りた場所もそう遠くない。

「ここから見えるのは、“オカダの世界”なんだよ」と、アベは優しく微笑みながら言った。

かつては、イチローに象徴された“ノー・ノー・ボーイ”も、そして戦地から復員した日系人兵士たちも、この界隈を複雑な気持ちで往き来していたのだろう。

アベは多くのことを語ってくれたが、私が理解する範囲で「ノー・ノー・ボーイ」の魅力についてこう強調した。

「自分は何なのか、どう生きたらいいのだろうかなど、この小説のなかではいろいろなことがつねに(主人公によって)、自問されている。それがこの作品の性 格を強くしている」

自問し、苦悩するイチローの姿は、多くの二世・三世の日系人が多かれ少なかれ共有する感覚だったともいえる。小説のなかではこの主人公に対して、つらくあ たる者ばかりではなく、むしろ善意で彼を受け入れ、助けようとする人物が登場する。彼の大学への復学を勧めてくれる教授や彼の経歴を知りながら仕事を差し 出してくれる人がいる。しかし、彼はそれをすぐに受け入れない。受け入れられない何かも抱えている。その点にアベは共感を覚えるという。

「仕事をもらえるからといって、例えば白人にありがとうなどといって簡単に受け入れるのではなく、ありがとうと言う気持ちはあっても、何かがまちがってい ると感じて、結構ですとイチローは言う。仕事を得ることよりも、彼にはまず自分がだれであるかを知ることが必要だった。彼は日系アメリカ人というアイデン ティティをつくろうとしていた。アメリカ人でもない、そして日本人でもない・・」

この小説が民族研究などのテキストとして大学などで使われているように、この映画も広く、研究・学習の素材として提供されることを目的としている。
「高校生だって同じように自身について疑問をかかえている。フットボールチームに入るべきかどうか、どういう仕事をしたらいいのか、など自問していると思 う」と、彼は言う。

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問い続けられる戦時中の対日系人政策

本誌の「スペシャル」(7月30日号)で、シアトルにある北米報知の佐々木志峰記者が触れているように、シアトルにあるフォート・ルイス基地に勤務する日 系アメリカ人であるワタダ中尉がイラク戦争への従軍を拒否して軍法会議にかけられている。このことで、地元の日系人のなかには、彼の行為を太平洋戦争中の 徴兵拒否者や“ノー・ノー・ボーイ”たちの立場と重ね合わせてみる人もいる。

その意味で、いまもって戦時中に日系アメリカ人が置かれた問題は、議論されるテーマになっている。戦争や収容所体験をもつ二世世代は数が少なくなってきた ようだが、そのなかの一人、シアトル在住のヒロ・ニシムラは、収容所に入れられる前に徴兵されて、インド・ビルマ(現ミャンマー)戦線へ赴き、ジャングル のなかを生き延びた。そうした苦労を背負いながらも彼は言う。

「この問題について突っ込んで議論しない。私はこういう立場にある人は、とても難しかったろうと同情します。私はかえって従軍して助かったと思っていま す」と、いま振り返る。しかし、日系の退役軍人のなかには、いまもってかつての「ノー・ノー・ボーイ」に対して反感を持っている人たちがいるのも事実であ る。

どちらが正しいとか間違っているという問題でないのはいうまでもない。繰り返していえば、それぞれに事情があり、こうした複雑な状況に陥れたのも戦争が あったからにほかならない。非難されるべきは戦争そのものであり、政府との関係で言えば、収容所政策である。

これについては戦後長らく、地元の日系社会では忘られざるべきこととして、残しておこうという動きがずっとつづいている。今回シアトルを訪れた際に目にし た最近の例を紹介しよう。

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ダウンタウンの船着き場からフェリーで30分ほどのところにベインブリッジ島という閑静な地区がある。この地の日系人コミュニティーの人たちは、太平洋戦 争がはじまってから最初に強制移動させられたといわれる。この歴史を教訓とし、このようなことを繰り返してはならないという意図で、現在地元の日系人コ ミュニティーを中心に「WWII Internment and Exclusion Memorial Project」という計画で、記念公園の建設が少しずつ進んでいる。

地元で日系人会の会長をつとめるフランク・キタモトの案内で現地を訪れることができた。地元で歯科医をする彼は1937年生まれで、家族とともに幼い頃収 容所に入れられた経験をもつ。オフィスには当時の写真が壁一面に並べられていた。

公園化が計画されているかつて桟橋があったところでは、記念の石碑が建てられていた。そこには「Let it not happen again」という英語に添えて、「二度とないように」、「Nidoto Nai Yoni」と、日本語でも大きく表記されていた。そこには英語が得意 でなかった一世や一部二世の気持ちを汲んでいるように思えた。

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*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(200年08月31日号)からの転載です。

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戦争によって、二つの祖国で彷徨う魂~ノー・ノー・ボーイを探した先にみえるもの-その2

>>その1

出口のないトンネルを彷徨うイチロー

小説「ノー・ノー・ボーイ」は、こうした戦中、戦後の日系人の置かれた状況を背景にして、自らノー・ノー・ボーイの道を選んだ、日系二世の青年を主人公と して、彼の内面の葛藤を追っている。名前はイチロー・ヤマダ。現在、シアトルを本拠地に大活躍するメジャー・リーグ・プレイヤーのイチローと奇しくもその 名前は同じだ。が、マリナーズのイチローが生き生きとした大ヒーローであるのに対して、小説のイチローは出口のないトンネルに入ってしまったような息苦し さを抱えた存在だった。

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終戦直後のシアトル。徴兵を拒否して刑務所に入っていたイチローが故郷のシアトルに帰ってきたところから話ははじまる。久しぶりに出会った同じ日系人の知 り合いは、イチローがノー・ノー・ボーイだったことを知ると、軽蔑と憎悪の眼差しで毒づいた。日系であり、かつノー・ノー・ボーイであることでしばしば罵 倒される彼は、「自分は尊厳も尊敬も目的も名誉もはぎとられてしまったんだ」と感じる。

親しい友人のケンジは戦地で片足を失い、それがもとで死の恐怖と戦いながらやがて死んでゆく。日系人のエミは、農場でひとりドイツに駐留した夫の帰りを待 つが、夫は実の兄が反米的になり日本へ行ってしまったことを恥じてドイツから帰ってこない。この兄は第一次大戦にアメリカ兵として従軍したことがあり、ア メリカ政府が自分を収容所になど入れるわけはないと信じていたが、それが裏切られた怒りでアメリカを敢えて捨てるという悲劇的な選択をする。

イチローが小さな食料品店を営む両親のところへ戻ると、そこには頼りなげな父親と狂信的に日本を崇める母親がいた。日本の勝利を未だ信じて疑わない母親を 父親は正気に戻すことができない。それとは逆にたった一人の弟タローは、兄がノー・ノー・ボーイであることを恥じてイチローを罵る。そして軍に志願する が、それを知って母親は自害する。

自分のとった道は間違いだったと後悔しながらも、それ以外の選択肢はなかったイチローは未来への閉塞感に包まれながらも、新たな生活を踏み出そうと仕事を 探す。こうした彼を温かく受け入れようとする人たちに出会うのだが、果たしてそれに甘んじていいのか自問自答する。そのなかでかすかな希望をつかみかけた 感触を得て話は終わる。

出版された当初は、わずか1500部だけを刷り、話題を呼ぶこともなく終わった。戦争の傷跡が日系人社会のなかに深く残っているころでもあり「ノー・ ノー・ボーイ」という存在は、議論のたねになりかねない神経にさわるような事柄だったのだろう。

しかし60年代後半になってベトナム戦争の影響でアジア系アメリカ人の研究に光が当たるようになり、公民権運動の盛り上がりも背景にアメリカにおけるマイ ノリティーへの認識も高まった。こうした状況のなかで、アジア系アメリカ人のある若者たちが、ジョン・オカダの「ノー・ノー・ボーイ」に注目し、総合アジ ア系アメリカ人資料プロジェクト(CARP)という組織をつくって自主的にこの作品を再び世に出した。

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アメリカ文学といえば、白人の文学を意味するなかで、これまで埋もれていた「ノー・ノー・ボーイ」もまた偉大なアメリカ文学であるという発見が原動力と なった。3000部が刷られほとんど完売、その後79年からは「University of Washington Press」が引き継いで出版、少しずつ版を重ね、一昨年その数は10万部に達するロングセラーとなった。一般読者はもとより、大学などで移民やマイノリ ティーを研究する上での参考図書としても広く取り上げられてきた。

日本では、79年に中山容が翻訳を手がけ、「ノー・ノー・ボーイ」タイトルのまま晶文社から出版され94年までに8100部を数えた。その後品切れ状態と なったが、02年に復刊されている。オリジナルには部数は遠く及ばないが息の長い作品となっている。

成功を知らずに、逝ってしまった作家

今回公開された「In Search of No-No Boy」は30分弱で、ジョン・オカダ個人の歴史と小説「ノー・ノー・ボーイ」が生まれる背景、そして作品への批評、評価についてまとめている。具体的な 手法としては、フィクションの中から一部を映像化したり、実際の映像や写真を使用しているが、その多くは関係者へのインタビューで構成している。

ジョン・オカダ個人については、未亡人のドロシー・オカダをはじめ、彼の長女、長男、そして弟が登場。また、この作品を世に出す運動をした作家で中国系ア メリカ人のショーン・ウォンや日系詩人のローソン・イナダ、ワシントン大学のエスニック・スタディーの教授、ステファン・スミダが解説する。

このほか、収容所を体験し、徴兵を拒否したフランク・エミや当時、ノー・ノー・ボーイと呼ばれたジム・アクツとジーン・アクツの兄弟もインタビューに答え ている。ジム・アクツ(故人)は、若い頃ジョン・オカダに当時の体験談を話したことがあり、小説の主人公イチローのモデルと言われている人物でもある。彼 の母親は彼がノー・ノー・ボーイであったことに、仲間はずれにされいじめられたことなどで自殺したとみられている。

イチローは徴兵を拒否して刑務所に入ったという意味では、本来の意味でのノー・ノー・ボーイではないが、アメリカという国家への忠誠を欠く人間とみられる わけであり、こうした人物を主人公とした小説が、出版当初はアメリカの日系社会のみならずアメリカ社会でも受け入れられなかったことが改めてわかる。

ジョン・オカダとその家族は、戦争中はアイダホ州のミネドカ収容所に入れられたが、ジョンは志願して従軍、MIS(軍事情報部)に所属して太平洋戦線に赴 く。終戦後はシアトルに戻り、その後ニューヨークなどを経てデトロイトの図書館に勤務、最後はロサンゼルスの企業でテクニカルな文書作成の仕事をしてい た。

インタビューによれば、家族は小説家としてのジョンについてはほとんど知らず、また、作家になることができず、仕事という点では彼は生前決して満足できな かったという。ようやく70年代に入って、徐々に注目を集めるようになるが、その時彼はすでにこの世を去っていた。自分の作品は成功とはいえなかったとい う思いのまま亡くなったことになる。

今後、この映画はさらに編集を施され完成される予定という。

その3>>

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*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(200年08月31日号)からの転載です。

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戦争によって、二つの祖国で彷徨う魂~ノー・ノー・ボーイを探した先にみえるもの-その1

この夏、アメリカ西海岸のまちシアトルで、「In Search of No-No Boy(ノー・ノー・ボーイを探して)」という短編映画が仮上映された。作品のもとになった同名の小説は、戦時 中のアメリカで生きる日系人の苦悩を描きいまも読み継がれるアジア系アメリカ人文学の代表作。映画制作にあたった日系三世フランク・アベの話を含め、小説 に込められた時代を超えた普遍的なテーマについてシアトルを訪れ考察してみた。(敬称略)(*注:本稿は2008年に書かれたものです。)

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「ヒロシマナガサキ」を制作したスティーブン・オカザキ、「TOKKO・特攻」の監督であるリサ・モリモト。日本の戦争を扱ったこの夏の話題の映画を撮っ たのはいずれも日系アメリカ人三世だった。

スティーブン・オカザキはあるインタビューに答えて、白人の顔をしていないアメリカ人だからこそ、被爆者たちが自分に体験を語ってくれたと話した。このこ とを含めて日本人である部分とアメリカ人である部分を併せ持つ中間に立つ存在として、先の戦争をある意味、客観的にとらえることができたのだろう。

しかし、太平洋戦争中はアメリカ国内(西部)の日本人、あるいは日系人は財産を没収され収容所に入れられた。さらに、日本人であることとアメリカ人である ことの狭間に置かれたがゆえに、「自分はいったい何者なのか」という自己のアイデンティティの危機を抱えることにもなった。

時代をいまに引きつければ、これは何も日系人だけの問題ではない。「9・11」以後にアメリカで暮らすアラブ系アメリカ人は、偏見や差別のなかで、アイデ ンティティの問題に直面せざるをえなかった。

「自分はいったい何者なのか」、「自分はいったい何をすべきなのか」は、広く一般社会の生活のなかでも自問自答される、普遍的な難問でもある。その意味 で、強制収容所への隔離といったアメリカ政府による政策によって日本人・日系人の置かれた状況は政治・社会的、かつ心の問題をいまもなおわれわれに問いか ける。

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こうした状況にあってどう生きるか、あるいは生きたかは、映像作品や文学作品としていくつも紹介されてきたが、なかでも小説「No-No Boy(ノー・ノー・ボーイ)」は、作品自体の歴史を含めてそのテーマの意味を象徴的に表している点でいまも注目を集めている。今年の夏この小説の舞台と なったアメリカ西海岸、シアトルでは「In Search of No-No Boy (ノー・ノー・ボーイを探して)」という、ドキュメンタリータッチの映像作品が、仮上映された。

制作の中心人物である、日系アメリカ人三世のフランク・アベは長年温めていたテーマを、日系アメリカ人文学として、またアジア系アメリカ人文学の歴史的な 偉作をもとに、約30分という短い時間のなかで描いてみせた。

公共図書館での試写会的な一般公開ではあったが、地元の日系社会への関心を呼んだのか会場は満席という盛況だった。私も日本からこの会場に足を運んだのだ が、観客席でみられたのは、多くは地元の日系人と思われる年配者の顔だった。戦時中に強制収容所を体験した人たちも訪れ、上映の後にはアベと観客との質疑 応答や意見交換も行われた。


“踏み絵”の質問に、「どうしたらいいのか?」

この映画はどのようなテーマでいったい何を描いているのか。その前に、ベースとなった小説「ノー・ノー・ボーイ」について説明をしたい。作者は、日系アメ リカ人二世のジョン・オカダ。彼は1923年にシアトルで生まれ、57年にこの作品を発表、そして71年に47歳で心臓発作のため亡くなった。彼が完成さ せた唯一の作品がこの小説だった。

「ノー・ノー・ボーイ」とは、いったい何を意味するかというと、戦時中にアメリカ政府が強制収容所内の日系人に対して行ったいくつかの質問のうち、ある二 つについて「No(ノー)」と答えた者が、こう呼ばれた。

質問は、アメリカに対する忠誠を確認するためのもので全部で33項目にわたったが、そのうち第27と第28が特に重要だった。敵性外国人として扱われた日 本人に対するそれはいわば踏み絵といっていい内容であった。

第27項は、徴兵年齢に達していた男子に向けられ「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務を果たすために合衆国軍隊に進んで奉仕する用意はあるか」と質 し、つづく第28項では、すべての収容者に対して「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、外国や国内のいかなる攻撃からも合衆国を守り、また、日 本国天皇をはじめ、いかなる外国の政府・権力・組織に対しても忠誠を示さず服従もしない、と誓えますか」が、突きつけられた。

この二つに対して、ひとつでも「No(ノー)」という答えをしたものが、「ノー・ノー・ボーイ」という、いわば不忠誠組として扱われた。当時、アメリカに いる日本人・日系人といっても、質問に対する考え方、敷衍すれば、日米間の戦争をどうとらえて、自分はどういう対応するのかは、まさにさまざまであった。

当時は日本から移民してきた一世とその子どもたちの二世がほとんどを占めていたなかで、民族的な意味での「日本人」が染みついている者も多くあれば、一方 で、すでに「アメリカ人」として生活してきた者など、個々に置かれた状況も歴史も異なっていた。例えば、二世のなかでも「帰米」といって、アメリカの親元 を離れていったん日本に帰って教育を受けてまたアメリカに戻るという経験をもつ者もいた。

自らのアイデンティティを日本人であることに置く者、また、名実ともにアメリカ人になろうとする者、そしてその間で揺れる者。問題の質問に対しては、「ア メリカ市民として義務を果たして生活してきたのに、なぜその権利を剥奪して収容所に隔離するのか。さらに、権利を剥奪しておいて、今度はアメリカ人として 戦えというのか」という矛盾に憤りを覚え、その結果が答えとなった例は多々あった。

「ノー・ノー・ボーイ」は、全体からみれば少数派で、さらにそのなかでもまた急進的な日本擁護論者たちもいれば、兵役忌避を目的とするものたちなどもいて ひとくくりにはできない。ただ、全体としてはアメリカ政府から反抗分子とみられ、彼らだけが集められて収容されることになった。

彼らとは反対に、アメリカ兵として志願して戦地に赴く者も当然いた。日系人の部隊としてヨーロッパ戦線でその勇敢な戦いぶりで功績を残した442部隊は有 名だが、多数の死傷者を出した彼らにとっては、一般的に「ノー・ノー・ボーイ」たちは認められない、非難の対象であった。

このように同じ日本人・日系人でも、あるいは同じ家族のなかでも世代によってはとるべき道が違ったりと、当時の日系社会のなかは混沌とした状態にあった。 この辺の事情は、デイ多佳子が著した『日本の兵隊を撃つことはできない/日系人強制収容の裏面史』(芙蓉書房、2000年)に詳しい。

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*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2008年08月31日号)からの転載です。

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