Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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日系(ニッケイ)—をめぐって

第24回 日系カナダのパイオニアたち ・『カナダの萬蔵物語』から

このコラムで前回紹介した、日本人カナダ移民の第1号である永野萬蔵氏の生涯についてまとめているのが、1977年に出版された『カナダの萬蔵物語 The First Immigrantt To Canada』(尾鈴山書房)である。 この年は、萬蔵がカナダに渡ってからちょうど100周年となり、この本には“萬蔵の物語”のほかに、「パイオニアの人達の素顔 日系カナダ人百年記念」と題して、その名の通り、日本からカナダにわたって活躍した日本人(日系人)が98ページにわたって紹介されている。 萬蔵物語と同様に、森研三(ケン・森)と高見弘人の手によるものとみられる。繰り返しになるが森は1914年カナダのヴァンクーバー生まれで、戦前はヴァンクーバーで発刊された『大陸日報』などの記者をし、戦後はトロントで『ザ・ガーディアン』の日本語版編集長を務めた。高見は1936年宮崎県生まれで、65年から66年にかけてカナダに滞在、以来日系人の移民史を調査・研究してきた。 パイオニアたちがカナダに足を踏み入れた当時、カナダの太平洋岸は未開発で産業も未発達だった。が、その分彼らの破天荒な試みも可能だった。野望を抱き、豊かさを求めて日本を離れカナダにわたった彼らのなかには、密航により上陸したものもいる。 道筋は人それぞれだが、やがて水産業、農業、実業界、公職、社会福祉など、さまざま分野…

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日系(ニッケイ)—をめぐって

第23回 カナダ移民の先駆け、永野萬蔵 — 長崎県・口之津でその足跡を知る

一昨年の夏から、私は断続的に日本の海岸線に沿って車で旅をしている。北海道、東北からはじめ、昨年は北陸、山陰、そして九州をぐるりと一周してきた。 島国の日本では、かつて外国へは海路を頼っていくしかなかった。反対に外国から日本へ来るにも同じことであり、その意味で日本の海岸線には、港はもちろんのこと海外との交流の痕跡がいくつも残っている。 昨年11月から12月にかけて九州の海岸線を車で走ったときのことだ。福岡県から反時計回りに進み、5日目に長崎県の島原半島を南下した。中央には雲仙岳がそびえ、半島東側には、江戸時代初期に起きた農民一揆である島原の乱の主戦場となった原城跡がある、その島原半島の突端に口之津(南島原市)という港まちがある。 雲仙や原城に比べると知名度は低いが、この海に開いた口之津は歴史的に見て、特殊な役割を果たした地であった。口之津の港は大型船が入るほど深く、また周囲の山によって暴風は遮られ、東シナ海からは船が一直線に入ることができるといった利点から貿易港に適していた。 古く16世紀には、ポルトガル船が度々入港し、生糸や絹織物をもたらした。また、同時に商人やキリスト教の宣教師らが乗船してきた。物や人が行きかい、まちは交易の拠点となりにぎわいをみせた。 明治時代には、石炭の積み出し中継港として栄えた。当時三池炭鉱の石炭は、三池港に大型船が入れなかったため、小型船で口之…

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第22回 戦争、そして海を渡った日本女性 ー 『花嫁のアメリカ[完全版]』を読む

戦争花嫁の戦後 1945年の敗戦後、占領軍として多くのアメリカの軍人、軍属が日本に駐留した。若い彼らと日本人女性とが恋愛関係に陥るのは、当然の成り行きだった。彼らと結婚しアメリカに渡った女性たちは「War Bride」、日本語にすると「戦争花嫁」と呼ばれた。 戦時中は「鬼畜米英」と唾棄していた国の男性と結婚するこうした日本人女性に対する世間の視線や、親の反応が一般的にどんなものだったかは、容易に想像がつく。それでも彼女たちは結婚し、海を渡り、その他多くの日本人女性が戦後の復興期から高度経済成長期に日本国内で送った人生とは、まったく異なる道を歩んできた。 もちろんその道は百人百様だが、「戦争」を挟んだ時代という共通項をもつ彼女たちならではの生き方が確かにある。約4万5000人といわれている彼女たちにスポットをあてて、その姿と言葉を写真と文章で紹介したのが、写真家、江成常夫氏である。1936年神奈川県相模原市に生まれた江成氏は、毎日新聞社をへてフリーの写真家となり、アメリカで戦争花嫁の取材をてがける。 その成果として、『花嫁のアメリカ』(朝日新聞社アサヒカメラ増刊号)を1980年に発表、その後、講談社から単行本(1981年)、文庫(1984年)として出版した。さらに当初の取材から20年後にふたたびかつて取材した人たちを追い、『花嫁のアメリカ 歳月の風景1978-1998』…

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第21回 『移民がつくった街サンパウロ東洋街』著者、根川幸男氏にきく

世界最大の日系人社会を構成するブラジル・サンパウロの日系人街をテーマにした『移民がつくった街サンパウロ東洋街 地球の反対側の日本近代』(東京大学出版会、2020年刊行)の著者で、国際日本文化研究センター特定研究員の根川幸男氏に、移民研究や本書が生まれる背景をきいた。 冒険譚としての「移民」の魅力 ——移民の問題に興味をもったきっかけはなんだったのでしょうか。また、そのなかでブラジルの日系社会の歴史を研究された理由はなんでしょうか。 根川: 1992年、カルナバル見物のためはじめてブラジルを訪問した時、サンパウロ東洋街にあるペンションに宿泊しました。そこで多くの在伯日本人や日系人に接触して、彼らや彼らの祖先はなぜこんな地球の反対側までやってきたのだろう?と、素朴な疑問を持ちました。また、Sさんという、戦前にブラジルに移民し、サンパウロ州内陸のバストスという移住地(当時は開拓フロンティア)でカウボーイ(カパタイスという牧場支配人)をやっていたというおじいさんに出会い、かっこいい生き方だと思いました。 その方は中学生の時にハリウッド映画を見てカウボーイに憧れ、自分の土地を買ったうえでブラジルに移民したということでした。当時は、移民というのはいわゆる食いつめもの、というイメージを持っていたので、実家が愛媛県の大庄屋で父が県会議員であったというSさんのお話に…

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第20回 サンパウロ東洋街—ブラジルの日系

日本から見れば地球の裏側に位置する南米の大国、ブラジル。ここには190万人もの日系人が暮らし、世界最大の日系社会を構成している。どこの国からの移民でも数が多くなれば、自然と人々は集まり母国と同じようなコミュニティーが形成され、異国の中の小さな母国社会が誕生する。 母国と似たような店ができたり、街並みが生まれたりする。しかしそれは、似て非なるものである。気候風土が異なり、文化が異なり、社会制度も異なる条件のもとで誕生するのは母国のものをアレンジした、“母国風”といっていいだろう。 そして時の経過とともに世代が変わり、移民の子孫はその国の人間に徐々になっていき、1世が培った文化はさらにアレンジされ、やがて2つあるいはそれ以上が融合した新たな文化が生まれる。コミュニティーもまた変容していく。 『移民がつくった街サンパウロ東洋街 地球の反対側の日本近代』(根川幸男著、東京大学出版会、2020年刊行)は、そうした移民社会の変化を、ブラジルの日本(日系)社会を通して教えてくれる。 新たな文化へのいざない 著者は、1996年からサンパウロで4年間生活し、そこで研究した総決算として修士論文「サンパウロ東洋街の形成と変容——都市サンパウロのアジア系移民の一局面」をまとめる。これを土台として、「世界最大の日本人街と呼ばれたサンパウロ東洋街…

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