Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第23回 再びアメリカへ

1952年11月に広島で開かれた世界連邦アジア会議の事務局長を務め、日本国連協会広島県本部事務局長の職にあった加藤新一は、日本での平和運動の職を捨て、1953年4月再びアメリカに渡った。

1961年の時点での本人による1953年からの経歴は、次のようになっている。

1953年産経新聞特派員として再渡米、のち新日米新聞社に入社、次々に家族を呼寄せ、1958年米国永住権を獲得、現在(※注1961年)同社主幹。同社の1955年度版及び1959年度版全米日系人住所録を編集、1960年に南加州日本人70年史を編集、同年の日米百年祭に日本政府から表彰を受け、また大日本農会から緑白綬有効章を贈られ、同年から、翌61年にかけ新日米新聞社出版の「米國日系人百年史」並びに「在米日系人発展紳士録」をも編集した。


産経特派員から新日米新聞社主幹へ

上記の経歴によれば、1953年4月に再渡米し、55年度版の新日米新聞社全米日系人住所録の編集に携わったとあるから、産経新聞の特派員であったのはわずか1、2年のことと思われる。広島にいた加藤がなぜ産経新聞の特派員としてアメリカにわたったのか、またすぐにロサンゼルスの新日米新聞社に移ったのか。

はっきりした理由はわからないが、ことによると新日米新聞社に移るのが前提だったのかもしれない。というのは、同社が産経新聞と深い関係にあったからだ。このことは、加藤自身が編集した「米國日系人百年史」に掲載されている「新日米新聞社」の紹介記事に記されているが、その関係に触れる前に同社について説明しておきたい。

新日米新聞社は、ハワイから来た籾井剣一氏が戦後の1947年4月に週刊の新聞をロサンゼルスで創刊、その後日刊とし、戦後に復刊した羅府新報、加州毎日とともに3紙で競合した。籾井氏は、新聞発行と同時に「全米日系人住所録」を発行して評価されたが、新事業のため帰国することになり、経営を弁護士の城戸三郎氏に委ねた。

城戸氏は、戦時中に全米日系市民協会の会長として、米国居住の日系人は米国に忠誠を誓うべきであるとして、日系人の安全と権利のために先頭に立って活躍したが、このため過激な日本主義者に攻撃されることもあった。

広島にルーツを持つ城戸氏が新社長になってからも「全米日系人住所録」は、1955年度版が発行され、これが後に加藤が同社主幹となり執筆、編集した「米國日系人百年史・発展人士録」の元になっていると思われる。


新日米時代の加藤を知る人物は?

新日米新聞社と産経新聞との関係は、「米國日系人百年史」のなかの「新日米新聞社」の紹介記事をみると経緯がわかる。

初代の籾井社長時代の1952年に同社は、産経新聞社と共催で「パイオニア母国観光団」を実施したのを契機に提携をすすめ、産経から写真製版や活字鋳造の技術者が機械とともに出向してきた。また、若手記者も同社から特派員を兼ねて出向き、紙面刷新に協力した。

さらに産経新聞は、カリフォルニア州のロングビーチで行われていたミス・ユニバース世界大会の日本代表の世話を年々続けていたこともあり、カリフォルニアでの拠点として新日米の協力を得、一方新日米新聞社は産経から記事を提供してもらい新聞づくりにも協力してもらうという、協力関係ができあがっていた。

加藤は産経の特派員から新日米の記者に身分をかえ、そののち全米を駆けめぐり「米國日系人百年史」を編集することになる。繰り返しになるが、そのときの活動がどんなものだったのかを探るというのが、加藤新一をめぐる本連載のきっかけだった。

取材をすすめ、加藤本人の人生についてはだいぶわかってきたが、全米の一世を訪ね歩いた記録については、新日米新聞社が短命に終わり、当時を知る人を探しあてることが難しく、残念ながら不明のままだった。

しかし、改めて新日米新聞社の紹介記事を読むと、当時産経の東京本社から、加藤のように特派員として新日米新聞社で活動していた記者が何人かいたことから、当時を知る元産経新聞の記者を探しあて、そこから加藤についての情報をえられないかと思い至った。

そして、いくつかのキーワードをもとにネットで検索したところ、たったひとつ日本記者クラブ会報(2009年4月10日号)で、産経新聞出身の阿部穆氏が寄稿したエッセイに行きあたった。

エッセイによれば、阿部氏は、1960年代に語学研修をかねて本社からロサンゼルスに派遣され「新日米」の新聞づくりを手伝っていた。阿部氏は「(新日米の)社長、城戸三郎氏は、JACL(全米日系市民協会)の会長だったが、日系人が米軍に加わり忠誠心を示す、という方向を打ち出したため、“日本派”の人々に襲われ、重傷を負った体験をポツリポツリと語ってくれた」と書いている。

「米國日系人百年史」に掲載された自社(新日米新聞社)を紹介する記事には、当時産経から来ていた記者として、山田進一、藤崎健の2氏の名前があがっていたが、阿部氏の名はなかった。しかし、加藤と阿部氏はほぼ時を同じくして新日米のオフィスにいたかもしれないと思い、阿部氏の所在、連絡先を探した。

幸い、日本記者クラブに所属する友人の伝手で阿部氏の連絡先がわかり電話をして事情を説明すると、快諾してくれ直接会って話を聞くことになった。

田園都市線沿線に住む阿部氏は、最寄りの駅近くまで出てきて、近くの喫茶店で半世紀前の話を聞かせてくれた。政治部長やニューヨーク、ワシントン特派員などを歴任したという阿部氏は、懐かしそうにロサンゼルスでの若いころを思い出し、城戸社長が日系人をまとめるなど当時活躍した立派な人だということを語った。

阿部氏は広島・宇品で中学、高校時代を過ごしたこともあり、広島にルーツのある城戸氏にはよくしてもらったという。

当時の新日米のオフィスのようすや新聞づくりなどについても話は及んだ。しかし、残念ながら、阿部氏が藤崎健氏のあとにロサンゼルスに赴任し新日米の仕事に関わったときには、加藤新一はすでに「米國日系人百年史」の編集を終え、新日米を離れていたようだった。

(敬称一部略)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第22回 広島で平和運動に取り組むが…

知事に請われて県広報委員長にも

日米開戦後アメリカから日米交換船で郷里の広島に引き揚げてきた加藤新一は、中国新聞の記者となり、一時は編集局次長の職についた。その後同社に誕生した従業員組合の委員長(組合長)となるなど多方面で活躍したが、1949年、7年間つとめた同社を退社する。新聞社時代の先輩、村上哲夫氏によれば、当時の楠瀬常猪・広島県知事に請われて、初代の広島県広報委員会委員長に就任、1951年に知事が楠瀬から大原博夫に代わってからも一年余り広報委員長を務めたという。

加藤本人が「米國日系人百年史」のなかで書いた自分の経歴には、1949年に「広島県広報部長に就任」とある。被爆地広島県の知事が、加藤のような記者経験、アメリカでの経験、そして英語能力を持つ民間人を登用しての広報活動の内容は、平和問題が中心だろうことは想像に難くない。

では、どのような活動をしたのか、広島県庁に広報課をたずねてきいてみた。しかし、残念ながら加藤の名前や当時の県広報委員長の存在はまったく知られていなかった。過去の記録を調べてもらったところ、ようやく「昭和25年に広島県広報委員会嘱託として加藤新一さんを委員長に」という記録があった。また、同委員会は「知事直属の組織」だと確認できた。

これ以上のことはなにも記録に残ってないのでわからずじまいだった。このあとの加藤の平和運動への貢献を考えると、さびしいものだった。

昭和25年は1950年にあたり、加藤、村上のいう1949年とは異なるが、どちらが正しいのかはわからない。


日本国連協会広島県本部事務局長に

加藤を登用した楠瀬は、1950年参議院広島県選挙区の補欠選挙に自由党から立候補しして当選した。村上氏によれば、参議院議員となった楠瀬のあっせんで加藤は、「国連に籍を移したが、一身上の都合で昭和二八年三月にこれを辞任し、四月末に渡米した」とある。

広島県の広報委員長を辞めたことについては、加藤が亡くなったときの読売新聞には、経歴を紹介するなかで「一時県庁に入ったが肌に合わず再び渡米」と言い表わしている。これまでどおり、納得がいかなかったり、思うような仕事ができないときは、組織にこだわらずに、潔く去って行くという加藤の生き方がここにも表れている。

村上氏の言う「国連に籍を移した」というのは、本人がプロフィールにあげているように、日本国連協会広島県本部事務局長を指すようだ。

国連協会とは、公益財団法人日本国際連合協会(国連協会)のことで、どのような組織かというと、「民間の立場から国民の間に国連に対する理解と協力を増進し、世界の平和と人類の福祉向上に寄与することを目的として、1947年に設立。全国で各地に任意の支部組織があり、国際的には国連のA級諮問民間団体である国連協会世界連盟(WFUNA)の有力メンバーとして、国内的・国際的に積極的に国連普及活動を展開している」(同協会ホームページより)という。


世界がひとつの政府をもつ

ここから平和運動に実質的に関わりはじめた加藤は、「世界連邦運動」推進のために尽力しはじめた。戦争・原爆を体験、アメリカ社会と日本社会を知る加藤が、行きついた思想がこの世界連邦運動だった。加藤を知る上で重要な世界連邦運動について、「世界連邦運動協会(World Federalist Movement of Japan)」のホームページをもとにまとめると——。

まず、「世界連邦とは、世界の国々が互いに独立を保ちながら、地球規模の問題を扱う一つの民主的な政府(世界連邦政府)」である。

「各国の熱心な世界連邦主義者達は、1946年、ルクセンブルグに集まって、『世界連邦運動』(WFM)の前身である『世界政府のための世界運動』(WMWFG)を組織し、その第一回大会を、翌47年、スイスのモントルーで開いた。23カ国から51の団体代表が集まり、1全世界の諸国、諸民族を全部加盟させる。2世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する——などの6原則からなる『モントルー宣言』を発表した」

「世界連邦運動は、世界各国の科学者、政治家の支持を得て急速に発展。1947年、各国の世界連邦運動団体の国際組織として『世界連邦運動(WFM)』<本部ニューヨーク>が結成。現在、WFMは24の国と地域の加盟団体によって構成されている」

「WFMは国連経済社会理事会諮問 NGO カテゴリーII として国連に対して意見や助言を行っている」

日本でも、戦後、超党派の世界連邦日本国会委員会ができる。「国会の中にも『戦争のない世界を実現するため党派を超えて立ち上がろう』という動きが始まり、1949年12月20日、衆議院議長松岡駒吉氏を会長・参議院議員田中耕太郎氏らを副会長に104名の超党派の両院議員によって世界連邦日本国会委員会が結成された」  


世界連邦アジア会議、事務局長に

1952年11月、「世界連邦アジア会議」が広島で開かれることになった。イギリス国会議員世界連邦グループが、1950年に、原爆の落ちた広島で世界連邦会議を開いて全世界に平和の叫びをあげてはどうだろうか、という案を出したところ、日本の世界連邦運動推進者にも共感を呼び、「世界連邦建設同盟、世界連邦日本国会委員会、世界連邦広島協議会の共催で、広島でアジア会議が開かれることになった。

そのとき、加藤は同会議の事務局長を務めることになった。そして、これをきっかけに加藤は広島を拠点に、平和運動に邁進していくのかと思われた。しかし、村上氏が記すように「一身上の都合で1953(昭和28)年3月、日本国連協会広島県本部事務局長を辞任し、4月末に渡米してしまう。

「一身上の都合」とはなんなのか、定かではない。加藤は再び活動の場をアメリカに移した。

(敬称一部略)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第21回 力量を発揮するも退社へ

広島に原爆が投下されてからほぼ8ヵ月後の1946年4月、米軍が撮影した広島市内の映像のなかに加藤新一が登場することに前回触れたが、撮影について当時の中国新聞が報じていた。

同年4月16日付の紙面で「復興の象徴」、「本社が天然色映画で全米にお目見得」という見出しで、加藤と思われる人物がデスクを前に座っている姿が見られる写真がついている。説明には「写真は本社編輯局内の一場面」とある。

記事をそのまま引用すると——

「戦災地の日本を映画化すためマツカーサー司令部では陸軍映画班を組織臨時列車を動員、長崎市をはじめ九州各地を天然色フイルムに収めたが、廣島市では過去一ケ月焼跡の撮影に消防梯子まで動員し、さる日曜日には宮島の櫻を、昨今は呉市、四國方面にまで足をのばし、数日中には岡山市へ移動する、廣島市では市役所、病院など一万五千尺をものし、災害地の中でもいの一番に復興した本社を全國新聞社中の代表的のものとして選び、取材から新聞が印刷されるまでの過程を具に撮影、近く全米の映画ファンにまみえる」。

また、これより先の3月29日付紙面では、「アメリカに行く廣島遺骨安置所」という見出しの写真付きの記事は、「廣島市聴遺骨安置所で原爆による戦災死者の遺骨引取りの場面を映画におさめている」と書いている。


労働組合の委員長を兼務

この当時、加藤は編集局次長だった。編集局のナンバー2である。その一方で、アメリカ軍の撮影が行われる2ヵ月ほど前に開かれた中国新聞社従業員組合の結成大会で、加藤は初代の組合委員長に選出された。その後、すぐに、個人加盟の産業別単一労組として先陣を切った日本新聞通信労働組合に加盟した。

戦後、急速に広まる日本の民主化の波のなかで、日本の新聞社では従業員が組合を結成する動きが加速していった。中国新聞もその例にもれず組合が結成されるのだが、委員長に編集局次長という社の幹部、あるいはそれに順ずる地位の者がつくというのは、どういうことか。

今日では考えにくいことだが、当時、中国新聞社ほか各社でもこうした兼務はありえたようで、また、同社の労組が結成される当時の労組と会社との関係、さらに義に感じて行動するという加藤本人の性格も関係しているようだ。

中国新聞の特別編集委員で、広島からの移民問題や原爆に詳しい西本雅実氏によれば、当時の組合は、会社に敵対的ではなく、かといって御用組合的でもなかった。一方で、オーナー企業であることに対する批判的な姿勢もあった。

「そういう組合だから、アメリカ帰りで民主主義を知っていて、占領軍とのやりとりも経験してきた加藤が推されたのではないか」と、西本氏はいう。


年をとっても革命児

また、加藤が編集局次長時代に論説委員として健筆をふるった村上哲夫氏は、「ながれ」(1954年刊)という自著のなかで、「血の気が多い」という見出しで、加藤新一の人物像を半生をなぞりながらつづっている。戦後、組合委員長になるあたりについては次のように言い表わしている。

「終戦後には一時、編集局次長となり、従業員組合が結成されて、初代の組合長に祭りあげられた。この前後にはアメリカ通だから、当時は編集局長にもと嘱望されたが、自分本位の地位を得るより、社員の期待に応えて、組合長になることを肯じたものである」。

ここから察するところ、社内の出世・地位よりも一般社員のために推されて組合委員長を引き受けたとみられる。村上氏も当時はオーナー経営に批判的であったというから、加藤の行動をより評価しているのかもしれない。

しかし、加藤のこうした経営陣に対して行動は以前にもみられた。加藤が戦前、ロサンゼルスの「羅府日米」の記者をしていたとき、サンフランシスコにある兄弟紙の「日米」で社長と従業員が対立したとき、加藤は両者の間に入り調停を買って出たが、会社側の対応を誠意なしとして、結局自ら同社を退いた。

こうした加藤の性格について、さらに組合委員長としての活躍について、村上氏はこう評価している。

「昔から血の気の多い性質で、年をとっても革命児の気分が燃えつづけ、お座成りの御用組合化どころか、とんでもないハツプン斗争のヤリ口が練れており、経営者側で目を白黒する場面が一再ならずあった。新聞通信関係で中国新聞社の労働協約が全国二番目に締結された。これから推しても、凄みのある腕利きだ」。

やはり、ここでも加藤の言動の力が発揮されている。この点もアメリカ仕込みといっていいのかもしれない。

こうして組合委員長として手腕を発揮した加藤だが、中国新聞の組合は、全国的な流れでもあった共産党の力によって変化していき、加藤の立場も微妙になった。一方、高まる労働運動は政治闘争から経済闘争へと転換していくなかで、1948年8月、中国新聞支部は、全日本新聞労働組合に加入し、12月に越年資金を要求する無期限ストをおこなった。これと前後して、加藤は文化局の局次長に異動となった。

このころから、加藤の組合内あるいは社内の立場、位置は揺れ動いていたようだ。これ以後加藤が中国新聞社を去るまでを、村上氏は次のように説明している。

「かくするうち中井正一氏(※注:社会運動家で美学者)が國會図書館の副館長となっていったので、その後任の廣島県労働文化協会会長に担がれたこともあった。しかし、労働運動の急先鋒が、共産党戦術化して行ったのと、各社とも部長級以上は労組員の資格がなくなって、そこに明確な一線を布くようになった。加藤も尻こそばゆい境遇に置かれた。それで昭和二四年四月、楠瀬知事から請われ、初代の廣島県弘報委員會委員長になり、……」

これだけだとあいまいだが、「尻こそばゆい」という言葉からして、なんとなく組合にも、あるいは会社にも、いずらくなったと思われる。こうして加藤は中国新聞を去る。しかし、加藤の力量は評価されていた。初代の公選廣島県知事である楠瀬常猪氏に請われて、加藤は、初代の廣島県弘報委員會委員長に就任する。

(敬称一部略)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第20回 アメリカ撮影の映像の中に

原爆投下からひと月ほどして加藤新一は、広島を訪れた赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の通訳兼案内を担った。そして11月1日付で政治部長に就任、翌46年2月には、社長交代にともなう中国新聞社の社内体制の刷新によって、編集局次長になった。

このころの加藤はどのような活動をしていたのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんに尋ねてみると、当時の姿はインターネット上の映像でみることができるという。

それは、Youtube にあげられた17分余のカラー映像で、音声はなかった。映像のタイトルには、「Hiroshima aftermath 1946 USAF Film」とある。撮影されたのは、1946年4月のようだ。

破壊された建物の前に神父のような法衣の白人と日本人の子ども数人が並んで登場する。続いて瓦礫のなかで農作業をする人の姿、そして木造の新しい仮設住宅とそこで暮らす日本人や壊れた墓石の数々。

タイトル通り、原爆投下後の広島市内の光景だとわかった。映像の続きは、両手を合わせ拝む和服の女性。その前にあるのは山のように積み上げられた小さな木の箱のようで、それぞれに名前などが書かれている。男性がその一つをとって女性に手渡す。遺骨が入った箱のようだ。

瓦礫のなかに何かを探す少年たち、背後には破壊された街を走る市電の屋根が見える。墓地の仏像に花を添える女性、川で何かを浚っている二人の少女、電柱にのぼって作業をする人……。


編集作業をする背広姿の加藤 

こうした光景のあとで、場面は変わりタバコをくわえ、帽子をかぶった男性が、鉛筆を握りしめ原稿のようなものを書いている。デスクの上には「キネマ旬報」の表紙が見える。

このあと黒板を背にして、眼鏡をかけたネクタイに背広姿の男性が、デスクで紙片を手にしている。目の前の花瓶から花がすっと伸びている。男性は、写真と記事を照合しているようで、インクをつけたペンで紙片に書き込み、終ると女性に何か言って手渡している。この男性が加藤新一だった。

どうやら、新聞社でのデスク作業のようだ。背広には社章だろうかバッジがつき、短く髪は刈り込んで、みなりはさっぱりとしスマートに見える。

加藤が登場するのはここまでだが、そのあとも新聞社の編集部の様子だろう、デスクで何人かが作業をしている。筆に墨をつけ紙に四角く線を入れているのは、大まかな紙面の割り付けのようだ。次は、鉛の活字を拾っているシーンだ。いまはもう見られなくなった光景だが、かつては新聞の文字は、一つひとつ鉛の文字を組み合わせて作ったものを原型にしていた。

映像は、「文選」と呼ばれる作業で、記事に必要な活字を一つひとつ探して“拾っていく”ところだった。ここから先も新聞ができるまでの光景をとらえている。記事ごとに集めた活字を文章どおりに組んで一つの記事の塊にする。さらに、これらの記事を割り付けに合わせて実際の新聞紙面と同じ大きさの鉛の原版をつくる。

この先の行程である、紙型をとり、この紙型をもとに鉛板をつくり、これをもとに印刷機にかけるところは省略され、映像は印刷機が回り次々と新聞が刷り上がっていき、できあがりをチェックする人をとらえている。この間に、なぜか 「Newsweek」 の置かれたデスクについて、仕事をしてる人の姿が見られる。海外のメディアも日ごろチェックしていることをおさめようとしているのか。

こうしてみると、映像の目的は、中国新聞社での新聞ができるまでの工程をとらえようとしていたことがわかる。しかし、この映像には、どこか不自然なところがある。例えば、加藤の作業である。加藤は当時、編集局次長の要職にある。中国新聞社は原爆で多くの社員を失ってはいるが、映像には、ほかの多くの社員が作業をしているシーンがある。従って実際は、編集局次長が写真と記事の付け合わせのようなことはしないだろう。

そう思ってみると、デスクの上の花もこれ見よがしな感じがしないでもない。フィルムの最初に出てくる法衣の白人と子どもたちの姿も整然としすぎて、芝居がかっているようだ。なにがしかの演出が働いていたのではないかと思わざるを得ないが、その疑問には、後に加藤本人が答えていた。


晩年、本人がテレビで語る

この映像の撮影から35年後の1981年7月7日、NHK広島放送局による午後6時40分からの番組「ひろしま6・40」で、この新聞製作の工程を映したフィルムのことが紹介され、生前の加藤がNHKに招かれて当時のことを語っていた。

当日の中国新聞でも「本社新聞づくりシーン 『10フィート運動』入手のフィルム NHK 関係者交えきょう放送」という見出しで、この番組についてとりあげていた。それによると、米軍が撮影した原爆の記録フィルムを入手し、記録映画づくりをめざす「10フィート運動」という市民運動が購入したフィルムのなかに、中国新聞社の当時の新聞づくりの過程が撮影されていたという。

番組では、フィルム映像を流しながら加藤に当時のことを語ってもらっていたので、吉田さんが教えてくれたYoutubeの映像と同じ長さのものかどうかはわからなかったが、撮影の場所は、当時広島市中区胡町にあった中国新聞の旧本社で、新聞製作の工程の映像は、同じものだった。

番組のなかに登場する帽子を被った男性について加藤は、「これは佐伯敏夫君だね、経済部長をした」と言い、編集作業をする自分の映像について尋ねられると「これは私でしょうね、あまり元気そうだから」と、笑いながら穏やかに答えていた。

作業そのものについて、加藤は「私は当時報道部で新聞記者の頭(かしら)のような仕事をしていたから、こういうふうに原稿を集めて整理するようなことはやってなかった」と言い、「では、頼まれてやったのでしょうか」と問われると、「占領軍が来て、新聞社のプロセスを撮るということで、(頼まれて)やったんでしょうね」と、認めていた。

また、当時の新聞づくりの苦労については、紙がなかったからペラペラだったと話した。

最後に、「原爆を新聞記者としてどのように体験なさったのか」と問われると、加藤は原爆で亡くなった弟、妹のことにふれ、妹からは死ぬ前に仇を討ってくれと言われたことを明かし、「僕は、仇は戦争だと思った。だから再び戦争はあってはいけない。戦争の生き証人として命の限りこのことを伝えなきゃいけない、そう思ってやって来た」と、力強く語っていた。亡くなるおよそ7ヵ月前のことである。

(敬称略)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第19回 被爆直後の中国新聞と加藤

原爆による広島の街と人の惨状を目にしたこと、そして弟と妹を原爆で失ったことは、のちに加藤新一が平和運動に邁進する原点であった。

前回紹介した、被爆当日に広島市内を駆け回った加藤の手記のなかで、弟、妹の死についてはこう記されている。

弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って――」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。


死没者追悼平和祈念館に 

二人の被爆については、これ以上は触れられていないが、どのような状況で亡くなったのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんが教えてくれた。わかる範囲の情報は、広島平和記念公園のなかにある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているという。

ここでは、原爆死没者を追悼し、原爆で多くの人が亡くなった事実を伝えるため、死没者の名前と遺影(写真)を登録している。

記念館の地下2階に、亡くなった人々の遺影と名前が記されている。また、ひとり一人について検索して呼び出すことができる。「加藤省三」「加藤文江」を探すと、若い二人の顔写真がでてきた。

丸刈りに丸眼鏡をかけた理知的な顔立ちの省三さんは、ネクタイ背広姿だ。被爆時は23歳で、広島県農業会に勤めていた。被爆場所は、広島市十日市町(現在の広島市中区十日市町一丁目)。爆心地から数百メートルの所。被爆後の夕方大田川東原の川岸から船で、東区戸坂の吉田さん宅までたどり着いたが、顔、首、両手をやけどし、翌9日に亡くなった。

文江さんは、セーラー服姿でわずかにほほ笑み、はつらつとした表情だ。被爆時20歳で、広島市八丁堀(現在の広島市中区)の広島県食糧営団に勤めていて被爆した。被爆後の夕方にトラックで郊外の可部を経て16日に吉田さん宅に来た。18日に加藤の住む平良に行き、20日からは勤めにも出た。しかし8月末から髪が抜け出し9月5日に亡くなった。

かつてはアメリカで暮らしていた加藤が、この妹から言われた「兄さん仇を討って」というアメリカへの憎しみの言葉をどう受け止めたか定かではないが、少なくとも最終的には、「戦争を仇」と思って活動したことは想像に難くない。 


復刊に向かう中国新聞 

身内をなくし、加藤自身も被爆当日、爆心地付近をふくめ市内を駆け回ったことで放射線被ばくした。22年後の昭和42年に加藤は被爆者健康手帳の交付を申請している。被爆時にはものかげにいたが、被爆後半年の間に発熱や下痢の症状があったという。しかし、被爆後はすぐに職場に復帰し、加藤同様に難をのがれた同僚とともに動き回ったようだ。

中国新聞の本社は原爆で全焼し、輪転機も焼け、電話電信も途絶えるなどし新聞が発行できなくなっていた。仕方なく唯一の通信手段だった軍の無電を通して、朝日新聞、毎日新聞の大阪、西部本社に頼んで“代替紙”を届けてもらい、「中国新聞」という題字の下に、小さく「朝日新聞」「毎日新聞」という題字も併記して、被爆3日後の8月9日付から発行した。

広島への原爆投下について新聞各紙は、8日付で報じたが、「原子爆弾」と書くことはできなかった。戦争終結の詔書が掲載された16日付の中国新聞(代替紙)でようやく、広島でも初めて「原子爆弾」と報じられた。

被爆直後から記者、カメラマンは惨事を記録しようとし、また、紙も墨汁もないなか口伝えで情報を市民に伝えるなどした。なんとか自力で印刷をするため、被爆前に広島市郊外の温品村(東区)に疎開させてあった印刷機を使って新聞を発行するまでにこぎつけ、9月3日付で戦後初めて自力印刷の紙面をつくった。

この時の1面のトップでは、前日(2日)に、東京湾上のアメリカの戦艦ミズーリで連合国と日本との間で降伏文書が確認されたことが報じられた。連合国側はダグラス・マッカーサーが、日本側は重光葵外相らが署名した。


ジュノー博士の通訳、案内として 

自力発行のこの日、ニューヨークタイムズ、AP通信などアメリカの従軍記者が米軍広報官や通訳の日系二世らとともに被爆地に入り、爆心地一帯を歩いて惨状を目にした。この後、県警察本部の特高課長や記者たちと会談した。

さらに5日後の9月8日、原爆投下の指揮をしたアメリカのトーマス・ファーレル准将が率いる調査団が広島に到着。調査団には、赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士が同行していた。本連載「第6回」で記したように、このとき、ジュノー博士の通訳兼案内を担ったのが加藤新一で、県に頼まれてジープに同乗した。

10日付の紙面では、原爆についての同博士の談話として「われわれはかかるものを二度、再びしようしないですむやうつとめなければならない」という言葉が紹介されているが、これは加藤が通訳したものだろう。

のちに、甥の吉田さんが語るところでは、加藤の英語は、日本人的な英語発音で決して滑らかなものではなかったという。

ようやく自力発行し広島からの被爆の情報などを発信できるようになった中国新聞にまた試練が襲う。9月17日、まだ原爆から40日しかたっていない広島を枕崎台風が襲い、暴風で温品村の輪転機も使い物にならなくなる。広島市民、県民にとっても原爆に追い打ちをかけるような被害をもたらし、県沿岸部を中心に2012人の死者が出た。

温品をあきらめた中国新聞では、焼けた本社を修復し業務を再開することを決める。残留放射能の心配があったが、専門家に尋ねたところ「大丈夫」だとの回答をえて、本社への復帰作業をすすめた。そして被爆からおよそ3ヵ月後の11月5日付から、周囲は焼野原の本社で自力発行をはじめた。

この復刊に先立ち、同紙では職制を改め人事移動を行った。そこで加藤新一は政治部長となった。

(敬称一部略)

第20回 >>

※参考「1945 原爆と中国新聞」「中国新聞八十年史」(ともに中国新聞社刊)

 

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