Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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日系(ニッケイ)—をめぐって

第35回 和歌山・美浜町のアメリカ村―日本の海岸線の旅の途中で④

三重県の英虞湾から海岸線に沿って紀伊半島の方に進むと、本州最南端の串本町に行きつく。この地からかつて男たちが、オーストラリアの木曜島付近で真珠貝(白蝶貝)を採取していた話を前々回書いたが、その先の海岸沿いにも古く海外とかかわった人たちの痕跡の残る町がある。紀伊半島最西端に位置する日の岬(日ノ御埼)を抱える美浜町という町だ。 串本町から今度は紀伊半島の西側の海岸線をひたすら北上していく。国道42号をずっと走ることになるのだが、海岸沿いに行くには、途中御坊市で県道御坊-由良線に入る。ここからが美浜町で、日の岬に向かって行くと、道沿いに「アメリカ村」と表示されたバス停がある。 観光地にあるような名称だが、実はそう呼ばれるに相応しい古い歴史に基いている。バス停のある三尾(旧三尾村)という地区では、明治時代から人々がこぞってカナダに移住、その後帰国した人たちも多くいたことからアメリカ村と呼ばれるようになった。 32年前の取材から 32年前、私はこの地を取材で訪れたことがあった。日本の海沿いの地のちょっとした出来事をルポする連載のひとつとして、三尾地区の歴史と今を追った。明治時代からカナダにわたった人たちの中では、成功して故郷に帰り、西洋風の家を建て暮らした人もいて、そうした家が地区に残るなど、当時の繁栄の名残が感じられる一方で、他の日本の過疎地同様、人口は減り空き家は増え、地元…

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第34回 アメリカ村の女性先駆者、伊東里き―日本の海岸線の旅の途中で③

移民熱をもたらす 前々回(第32回)の「三重県・志摩市のアメリカ村から」で、旅の途中で立ち寄ったジャズ喫茶の主人竹内寿一さんの祖父、竹内幸助氏がアメリカへ渡り、ロサンゼルス近くのサンペドロで形成された日本人コミュニティーの歴史を「サンピドロ同胞発展録」という本にまとめていたことを紹介した。 幸助氏は、三重県の旧片田村の出身だったのだが、この片田村が多くのアメリカ移民を輩出し、当時“アメリカ村”と呼ばれていたことまでは触れた。しかし、どうしてこの地の人たちが海外へ行くようになったのか。インターネットなどで調べてみると、それにはひとりの女性の存在が大きく影響してた。 女性の名前は、伊東里き(いとう・りき)。片田村出身の彼女は、この地域から最初にアメリカに渡った海外移住の先駆者で、彼女を頼って片田村から多くの人がアメリカへ渡ったという。 里きについては、伊勢志摩の観光ガイドにも紹介され、彼女が一時帰国の際に持ち帰った、松が立派に育ち「おりきの松」として今も地元に残っていることもわかった。また、彼女については、アメリカで最初に助産婦の資格をとった日本人という紹介もあった。 里きがアメリカに渡ったのが、1889(明治22)年。同じ片田村出身の竹内氏が根をおろしたサンペドロでは、最初に来た日本人でも1899年ごろで、竹内氏は1918年に渡米したというから、片…

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第33回 オーストラリアで真珠貝を―日本の海岸線の旅の途中で②

明治時代からオーストラリアに白蝶貝(通称、真珠貝)を採りに行っていた日本人がいたことは知っていたが、三重県から紀伊半島の海岸線を旅するなかで、ふとしたことから、祖父がそのひとりだったという人から話を聞くことができた。 三重県伊勢市にかつて強力造船所という造船所があった。1956年夏、ここで一隻の遠洋マグロ漁船が東京水産大学の練習船に改造された。1954年3月1日太平洋のビキニ環礁近くでアメリカの水爆実験に遭遇し、“死の灰”(放射性物質を含む降下物)を浴びた第五福龍丸である。 第五福龍丸の歴史を追う取材で、旧強力造船所の三代目の社長、強力修氏から話を聞く機会があり、以来伊勢に行くと強力氏を訪ね昔話などをきかせてもらっていた。今回も強力氏を訪ね、海や船にまつわる話をしていると、かつて強力造船所がオーストラリアへ真珠貝を採りにいった船を頼まれて造ったことがあり、その発注先の孫にあたる人が志摩市で、真珠を取り扱う店を経営しているという。 「興味があるなら紹介してあげるよ」といわれ、さっそく翌日、海に突き出た大王崎の近くで真珠店「あらふら丸商会」を経営する中村滋さんを訪ねた。 オーストラリアで真珠貝を採ったのは、オーストラリアとパプアニューギニアの間のアラフラ海で店内には、かつて祖父の中村藤四郎さんが貝の採取につかった船や現地の様子をとらえた写真が何点も飾っ…

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第32回 「サンピドロ同胞発展録」― 日本の海岸線の旅の途中で①

三重県・志摩市のアメリカ村から 一昨年から日本の海岸線を車で走る旅を続けている。一度にではなく、何度かにわけて神奈川県の自宅から出発して、日本列島の輪郭を描くように走るようにしている。その一環で、つい最近、愛知県の伊良湖岬からフェリーで三重県の鳥羽にわたり、海岸線に沿って紀伊半島をめぐった。そのあとは、和歌山市から徳島市にこれもフェリーでわたり、そこから四国の太平洋岸を高知県の西端まで進んだ。 この旅の主目的ではないが、訪れた先々で、もしジャズ喫茶やバーをはじめ音楽に拘った店があれば立ち寄ることにしていた。今回も、旅の経路にそうした店があるかどうか事前に調べてみた。 すると、そのひとつとして真珠の養殖で知られる英虞湾を東から囲むようにのびる、さきしま半島に「SWING(スウィング)」というジャズ喫茶があるのがわかった。この種の店としては、街なかから離れた変わったところにあるなと思いながら訪ねてみた。 海沿いに「ゆうやけパール街道」なる道を進むと、レンガ色の立派な重厚感のある建物が見えた。この日は運悪く店の定休日にあたってしまった。しかし、店に電話をし、遠くから来たことを話すと、親切にも店を開けてくれた。 広々とした空間は、往年の名プレイヤーの肖像画やレコードに囲まれていた。巨大なスピーカーがドーンと奥に据えられ、迫力満点の音響で訪れるジャズファンを楽しませているという。…

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第31回(後編)「セツコの秘密」訳者、岩田仲弘さんに聞く

前編を読む>> 日本語出版への道のり  ——日本語版が出る経緯と、イーコンプレス社から出版された理由はどのようなものですか。あまり、この種の本を手がけたことのない会社のようですが。 岩田: シャーリーさんが原著を出版した時、私がまったく知らないところで、さらに私よりもはるかにシャーリーさん、母で主人公のセツコさんらヒグチ家と深いつながりを持った人たちが邦訳を出版しようと動いていました。 日本語版作成で中心となった城西国際大学学長で薬学者の杉林堅次さんや、創薬ベンチャー「ナノキャリア」の宮嶋勝春さんたちです。お二人は若い頃、高名な薬学者だった、著者の父ウィリアム(ビル)・ヒグチさん(セツコさんの夫)の下、ミシガン大、あるいはユタ大の博士研究員(ポスドク)として指導を受けていました。杉林先生は当時、セツコさんにたびたび収容所生活について質問したものの、いつも話を上手にはぐらかされていたそうです。なぜ語ろうとしなかったのか、しかも語りたがらなかった収容所の跡地保存のため密かに寄付を続けていたのはなぜか、原著でその「秘密」が明らかになり、大きな衝撃を受け、ぜひ日本語で紹介したいと思ったそうです。 本を出版するのがなかなか大変な状況下で、医療・製薬関連に強い旧知の出版社に働きかけ、出版が実現しました。私自身、出版社につてがあったわけではないの…

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