Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第18回 原爆の日を駆け回る

1945年8月6日、中国新聞の報道部長だった加藤新一は通勤途中、西広島駅近くにいて原爆の閃光を見て、すぐさま市内の中国新聞本社へ向かった。その時見たもの感じたことなどを記録、26年後の1971年に自ら発行人となった「平和競存の創造」のなかで「原爆地獄を往く 一老記者のピカドン体験記」として発表した。以下、その体験記を紹介しよう。 ピカドンの一瞬ピカっと青白い大せん光。つづいてドーンと大きくにぶい大轟音の一瞬。私は地べたに叩きつけられた——。 一九四五年八月六日午前八時十五分。私はあの世界人類が最初に体験した原子爆弾炸裂の瞬間、広島市の西玄関己斐(今の西広島)の宮島電車駅改札口から数歩の国道上に、朝の通勤ラッシュ、市内電車へ乗替えの長い行列の末尾で朝刊新聞に目を落としていた。 これは至近弾、あとの投弾を受けぬ間に——と勝手知った貨物駅入口から、すでに倒壊した倉庫の屋根を飛び越え、韋駄天のごとく山の手に向け走った。 敵機が油を撒いている——と叫ぶ声がする。まことポツポツ落ちている雨は黒くニチヤ、ニチヤしている。その朝は土用の最中で雲一つなかったのに大轟音とともに辺りが薄暗くなり、油に似た黒い雨。一人の兵隊が「油ではない。よごれた雨だ」という。麓の横穴に難をのがれ、東方の市内を見渡すと、全市から火の...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第17回 広島はアメリカ2世の郷里だから?

日米開戦から8ヵ月余の1942年8月20日、日米交換船で日本へ戻った加藤新一は、郷里の広島市で中国新聞の記者となった。いつからどのような経緯で就職したかはわからないが、アメリカでの邦字新聞の記者としての経験がものを言ったのだろう。 中国新聞1は、広島市に本社を置き広島県内のほか、山口県、岡山県、島根県など中国地方で販売されているブロック紙で発行部数は、約53万8000部(2021年3月)。その歴史は古く、明治25(1892)年に「中国」として創刊、明治41(1908)年に「中国新聞」と題号がかわった。 開戦前後の中国新聞 日米開戦の翌年(1942年)に中国新聞は創業50周年を迎えた。開戦後勢いを増していた日本だが、加藤が帰国する2ヵ月前の6月にはミッドウェー海戦で敗北し、守勢に転じていた。1944年にはサイパン島で日本軍は玉砕、東条内閣は総辞職した。日本本土への空襲もはじまり、11月には東京も初めて空襲に見舞われた。 1945年5月15日、中国新聞の東京支社が焼夷弾攻撃によって消失、つづいて大坂支局、岡山支局、宇部支局、下関支局、徳山支局、福山支局が戦火で失われた。このため広島市の中国新聞本社では迫りくる空襲への防衛対策が進められた。 しかし、社員の多くは応召していたため、地方の支局員を交代で動員、防火幕や防火水槽を設けるなどして防空体制を整えた。一方、新聞用の資材...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第16回 抑留され、交換船で帰国

日米開戦となってから、日系新聞の編集長という日系コミュニティーの指導的な立場のひとりとして、自身の身に起ったことについて、加藤新一は詳しく記録に残していない。ただ、「日米開戦でモンタナミゾラ抑留所に監禁され、同年六月紐育から第一次交換船で帰国」(「米國日系人百年史」)とあるだけだ。 1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。その数時間後には、アメリカ連邦捜査局と移民局の人間が、日本人、ドイツ人、イタリア人の家々をまわり、あらかじめ用意されたリストにある一世の男たちを逮捕、連行していった。彼らの大部分は日本語教師、新聞編集者、仏教の僧侶など、地域のコミュニティーのリーダーだちだった。 モンタナ州、ミズーラ抑留所へ 逮捕された男たちは、その後事情聴取を受け、釈放されるものもあったが多くが敵性外国人として、在外外国人抑留所に送られた。主な抑留所は、クリスタルシティー(テキサス州)、ケネディー(同)、シーゴビル(同)、フォートリンカーン(ノースダコタ州)、フォートスタントン(ニューメキシコ州)、オールドレイトンレンチ(同)、ローズバーグ(同)、サンタフェ(同)、クースキア(アイダホ州)、フォートミズーラ(モンタナ州)、サンドアイランド(ハワイ)である。 これらは、のちにアメリカ西海岸などに住む日系の1世と2世、約12万人が送られた全米各地...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第15回 米國産業日報の編集長となるが……

前回、加藤新一が記者として所属していたロサンゼルスの日系新聞「羅府日米」をめぐるスト問題について簡単に触れたが、加藤が編集した「米國日系人百年史」のなかの「米国日系人の刊行物」のなかに、この点について詳しく書かれている。 それによると、実業家でもある安孫子久太郎はサンフランシスコで新聞「日米」を創刊し、ついでロサンゼルスにも進出を図り、「北米報知」(1915年発刊)を買収し、「羅府日米」を創刊した。 サンフランシスコの新聞「日米」では、安孫子久太郎社長と従業員側とが対立した結果、社長が編集部員に退社を求めた。これに対し従業員側は、退職者の復職や未払賃金の支払などを求めたが聞き入れられなかったため、ストライキに入った。 このとき、ロサンゼルスの「羅府日米」にいた加藤は、羅府日米の社員を代表し、いわば兄弟紙の「日米」の争議調停のため、同僚ひとりとともにサンフランシスコに出向いた。しかし、「日米社側が一応妥結案を承諾しながらも翌朝に至り寝返りを打ったため、社側に誠意なしとして直ちに羅府へ飛行機で帰り、従業員に報告」、そして加藤をはじめ幹部社員の三人は未払給料三ヵ月分の支払を受けて退社した。 自分が正しいことと思ったことは、実行に移すという加藤の性格を表わしているようなエピソードだが、同じようなことは戦後、加藤が中国新聞に記者として籍を置いていたときもあった。 「米國産業日...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第14回 日系新聞の記者となる

中部カリフォルニアで父を手伝い農業に従事した加藤は、父が日本に戻るとひとりロサンゼルス近郊のパサデナに出て造園業をつく。しかし、まもなく日系新聞の記者となった。ジャーナリズムに長年携わる彼の原点である。 北米でもハワイでも、そして南米でも移民社会のなかからは自然と日本語の新聞が生まれる。言葉の壁によって情報を得るのが難しいなか、日本語での情報は生活に欠かせないからだ。初期の日本語新聞は、日本で自由民権運動に関わった青年たちによる政治的な文書という意味があったが、移民が増えるにつれて各地域のコミュニティー紙が拡大していった。 ハワイ、サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルスをはじめデンバーやソルトレークシティ、シカゴなどでも日系新聞は誕生した。加藤新一が記者として活躍していたロサンゼルスの日系新聞は、サンフランシスコよりかなり遅れて1903(明治36)年4月に創刊された『羅府新報』がはじまりだった。 羅府日米から加州毎日へ 大正時代に入り、日系人社会が発展し「リトル・トウキョウ」が形成されるころになると、『羅府日米』や『南加タイムス』などが創刊された。つづいて1931年には『加州毎日』が創刊された。こうした新聞は、経営上の問題や編集方針の違いなどから、廃刊や合併などが絶えず、人材も流動的だった。 加藤が所属した『羅府日米』や『加州毎日』もその例に漏れることはない。「米...

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