Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第28回 終わりなき世界平和の旅

国連事務総長に手紙を書く

「世界連邦」と「地球市民」を訴え世界各地を回る加藤新一は1975年7月、サンフランシスコで開かれた第一回地球市民世界大会へ出席した。その翌年の1月、加藤は当時のワルトハイム国連事務総長にあてて書状をおくった。このあたりも行動家、加藤の真骨頂が表われている。 

書状は、1976年1月20日、広島から出されたものだ。

「PLEASE ASSIST NOT TO WASTE THE PEOPLE'S TAX MONEY-FOR-WORLD PEACE: An Appeal from a Hiroshima A-Bomb Suvivor」(世界平和のために人々の税金を無駄にしないよう力添えください−広島の被爆者からの訴え)というタイトルで、「Dear Mr. Kurt Waldheim, Secretary-General of the U.N.:」(国連事務総長、来ると・ワルトハイム様)と書き出している。

最初に「No one puts new wine into old wineskins」(新しいワインを古いワイン袋に入れる者はいない)と、聖書の言葉を引用している。古い箴言だが、この当時の世界状況にもあてはまると加藤はいう。

人類はいまひとつの家族であるべきなのに、相変わらず国家という枠にとらわれていて、平和運動もまとまりにかけていると危機感を募らせ、ウ・タント前国連事務総長が登録第一号となった地球市民、そして世界連邦の思想を述べ、国連がこうした思想を積極的に広めるための強いリーダーシップをとることを事務総長に求めている。


孫のサンドラ・カトウさんと連絡がとれる 

これまでと同じ一貫した主張を繰り返し訴えている加藤のこの文書の存在を私に教えてくれたのは、新一の孫にあたるサンドラ・カトウさんだった。新一のひとり息子、直(ケネス)の長女にあたるサンドラさんはカリフォルニアに住んでいる。

以前から加藤さんのアメリカでの親族を探していたところ、ディスカバーニッケイの西村陽子さんから、かつて加藤さんの家族と親しくしていた、ロス在住で広島県人会のヨシ・アクタガワさんを紹介され、さらにアクタガワさんの紹介でサンドラさんと連絡がとれた。

2020年末にEメールでやりとりをすることができた。サンドラさんによると、まず、いまも健在な彼女の母親(新一の義理の娘)は、新一についてはほとんど知っていることはないという。また、すでに他界した父親(新一の息子)の直(ケネス)さんは、広島の原爆について精神的にトラウマを抱えていて広島関係についてはほとんど語ることはなったという。しかし、家族の記録は倉庫のなかに残っているという。

また、新一が「国連に抗議したとき」の映像フィルムがいつくかあり、「デジタル化していないが近いうちに実行するつもりだ」とメールに書かれていた。

新一が書いた国連事務総長あての訴えについては、広島で平和活動に尽力したアメリカの宗教家で教育者のメアリー・マクミランが残した「Mary McMillan papers, 1936-1997 and undated, bulk 1952-1991, bulk 1952-1991」というコレクションのなかにあるのを、サンドラさんは見つけたという。アメリカのデューク大学(Duke University)の図書館が所蔵しているものだ。

メアリー・マクミラン(1912〜1991)は「広島市での多年にわたる女子教育、平和教育、社会福祉などに貢献した」ことで、広島市から特別名誉市民の称号を贈られている。彼女と加藤に親交があったのかどうかはわからないが、こうした加藤の行為は彼女の知るところとなっていたのだろう。

国連事務総長に手紙を書いた2年半後の1978年6月、加藤は第1回国連軍縮特別総会に出席するため渡米するが、その直前の5月25日広島市役所を訪れた。1982年2月10付の朝日新聞は前日に亡くなった加藤についての記事を載せたときに、広島市役所を訪れた加藤の写真を掲載している。

加藤が自らつくったらしい大きなパネルには、きのこ雲の写真を背景に亡くなった弟と妹の顔写真がはっきりとみてとれる。「原爆で死んだ弟妹のうらみを込めたパネルを手に」という記事の説明がついているが、このパネルの意味は、正しくは肉親を亡くした者として二度とこうしたことをおこしてはいけないという、「恨みを超えた平和を求める気持」であることはこれまでの加藤の発言からわかる。

こうして加藤はニューヨークで行われた国連軍縮特別総会に「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民代表団」の一員として参加、その後おこなわれた反核団体の集会などに出席し、核軍縮と世界連邦建設を訴えた。


ヒロシマの心を持ったヒロシマの顔

帰国後も活動は衰えず、1981年12月には、広島で開かれた「パルメ委員会広島セッション」にも出席した。パルメ委員会とは、同年結成された国連の「軍縮と安全保障問題に関する独立委員会」のことで、委員長であるスウェーデンの政治家オロフ・パルメの名前をとってこう呼ばれた。

82年6月に開かれる第2回国連軍縮特別総会にも参加を希望していた。しかし、同年2月9日に脳梗塞で亡くなった。

翌日、加藤の死は新聞で報じられ、加藤の活動をよく知る人の言葉が以下のように紹介された。

広島YMCAの相原和光・総主事は「ポケットマネーで全国を行脚したり、平和公園内の世界連邦の碑づくりに走り回ったり、文字通り平和のための市民運動の先駆者だった。地球市民世界会議ではウ・タント、ノーマン・カズンズ両氏に次いで三人目の名誉市民。核兵器廃絶の運動が国際的に高まっているときだけに、国連へ行かせたかった」と話していた。(朝日新聞)

加藤さんの平和運動の協力者の一人、原田東岷・広島ワールドフレンドシップセンター理事長は「世界連邦主義一筋の人だった。国連軍縮特別総会には死んでも行く、途中で倒れたら本望だとまで話していた。国外に知人が多いくらいで広島の心を持ったヒロシマの顔だったと思う」と話している。(読売新聞)

(敬称一部略)

続く >>        

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第27回 日本から世界へ

よく 牛にひかれて善光寺詣り というが、私はこのたび善光寺詣りならぬ世界秘境「ネパール」詣りができた。それも「牛」ならぬ「地球市民」のお蔭であった。

カナダのオッタワ、北欧のブラッセル、そのほか世界連邦世界大会など、お祭りさわぎに終わりがちな大会には興味を持たなかった私が、去る一月中旬から一週間、インドの首都ニューデリーで開いた第十六回世界大会にでかけたのは、実はアーメド印度大統領やガンジー首相が地球市民登録に署名したし、来る七月末にサンフランシスコで開く第一回地球市民世界大会の支持決議を得るためでもあった。

以上は、「広島文化通信」1975年7月15日号のなかの「ネパールの旅 −『地球市民』遍路に想う」と題した加藤新一のエッセイの一部である。加藤は、元国連事務総長のウ・タントが提唱した「地球市民」に共感し、日本で最初に世界連邦主義者世界協会に「地球市民登録」をし、その後熱心に地球市民運動に取り組んだ。

しかし、具体的にどのような行動に出たのかはほとんどわからない。新聞記者であり編集者でもあったが、どちらかと言えば書くより「行動する人」だった加藤が書き残したものが少ないのがその主な理由である。「広島文化通信」のエッセイは、数少ない彼の書き残した文章のひとつである。私がこのエッセイの存在を知ったのは「広島平和記念資料館」の「平和データベース」がきっかけだった。


「図書館」と「継承する会」の協力 

データベースのなかの「雑誌」の項目の中に「生活と文化」(特別増刊号No.11、平和出版者)と「広島通信 1972.12.01 広島通信の会」という二つの出版物に加藤が寄稿しているのがわかった。前者は、「人類みな地球市民」で、後者は「地球時代・平和の新処方箋」というタイトルで、加藤が自著で述べていることとほぼ同様のことが書かれていた。

この二つの出版物のほかの号についても調べてみようと広島市中央図書館を訪れ尋ねたところ、「広島文化通信 第3号」に加藤新一の寄稿があることがわかった。しかし、同図書館には実物はなかった。しばらくして同図書館の広報資料室の方が、「NPO法人 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」のホームページ内の「継承する会所蔵 文学・芸術関連文献目録の公開について」のページに「広島文化通信 第3号(春陽社出版 1975)」が掲載されている、とメールで連絡をくれた。

そこで、問い合わせ先の「継承する会資料庫部会」にメールで尋ねたところ、「継承する会」の事務局の方が、書庫にあるという「広島文化通信」の加藤新一のエッセイをわざわざコピーして送ってくれた。このお二人の親切のおかげで入手することができたのが、「ネパールの旅」である。

広島文化通信は、1973年に広島通信として広島市の春陽社出版で創刊された雑誌だが、どうやら短命に終わったようだ。


ネパール人にも呼びかける

「ネパールの旅」は、わずか2ページで「カトマンズの寺院」「カトマンズからのヒマラヤ遠望」と説明のある写真が2カット添えられている。

このエッセイによれば、加藤は第十六回の世界連邦世界大会に出席するため、日本から香港、バンコク、カルカッタを経てニューデリーへ行った。そこには世界24ヵ国から約400人、日本からは65人が参加し、「世界正義と開発のための積極的共存−世界共同体をめざす」という大きなテーマのもと、さまざまなことが議論された。

加藤は、団体で訪れたニューデリーには一週間ほど滞在し、その後は「見物ぎらいのため」団体から離れて行動したかったようだが、費用が高くつくというので渋々団体の一員として行動したという。その一環でネパールの首都カトマンズを訪れ、ヒマラヤ連峰のご来光を拝むことができたことを、「平和遍路のお蔭かもしれない」と、エッセイで言っている。

カトマンズにも世界連邦支部組織が生まれ、現地では近く日本の皇太子夫妻を迎える(新国王戴冠式で)準備に忙しいなか、加藤らはネパール官民の大歓迎を受けた。

加藤は「地球市民」の重要性をカトマンズでも呼びかけたようだ。しかしネパール人の反応については、「(地球市民のことを言われ)目を白黒させたのも、ナショナリズムにめざめつつあるこの民族としては無理もない」と書いている。時期尚早だったということだろうか。

サンフランシスコへ

ネパールに行く前、加藤は日本各地もまわり「地球市民」の考えをアピールしていたことが、このエッセイの次のくだりから推測できる。

広島から七十二歳の地球セールス・マンがやって来た——と北海道の新聞に書かれて以来、東北・北陸・九州——さらにアメリカ西海岸に「ゼンコウジ・マイリ」したのが、インドのニューデリー、さらに来る七月下旬の第一回地球市民サンフランシスコ世界大会(国連創立三十週年記念)にまで辿りつき、ネパール巡礼も「地球市民にひかれて」であった。

やや時系列がわかりにく文章だが、加藤は1900年生まれなので1972年に「地球市民」を広めようと北海道を訪れて以来、東北・北陸・九州を訪ね、さらにアメリカ西海岸にもわたり、このエッセイの最初にあるように75年1月にはニューデリーからネパールを訪れた。

「ネパールの旅」のエッセイが掲載された広島文化通信は1975年7月号だから、その前にこのエッセイを書き、そして同年7月にサンフランシスコで開かれた第一回地球市民世界大会に参加したと思われる。

1960年から翌年にかけて全米をひとり車でまわり、日系移民一世の足跡を訪ねた行動力は、衰えることなく、70年代は「地球市民」を訴え日本国内から海外を回った加藤の姿が想像できる。

(敬称一部略)

続く >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第26回 地球市民となる

1900年生まれの加藤に直接会っている人は、日本で私が取材した範囲では加藤の甥にあたる吉田さんと加藤の実家近くに住む二人だけで、アメリカではロサンゼルスの広島県人会にひとりいるだけだった。

加藤が晩年精力的に関わった平和運動の関係者で加藤を知る者はいないものかとおもっていたところ、広島市役所で偶然手掛かりがつかめた。原爆で亡くなった加藤の妹や弟のことを調べようと広島市健康福祉局原爆被害対策部援護課を訪ねたとき、「原爆被害者対策事業概要」(2019年版)というものを入手した。

原爆の被害状況や被爆者対策などがまとめられているその刊行物の終わりの方に「平和関係団体名簿」として、7ページにわたりさまざまな団体の名称、所在地、連絡先の一覧があった。そのなかに「世界運動協会広島支部」をみつけた。加藤が生前深くかかわっていた団体である。

くわしい所在地のところに、「森下峯子方」とある。さっそく記されていた連絡先の電話番号にかけ、何回目かで森下さんと話をすることができた。加藤新一について調べていることなどを説明すると、森下さんは、加藤のことは知っているだけでなく50年ほど前加藤に会ったことがあるという。


やさしい熱血漢 

森下さんにお願いして、広島市内で待ち合わせ話を聞かせてもらうことになった。1948年生まれの森下さんは、若いころから世界連邦の運動にかかわり、加藤が事務局長をつとめた1970年8月の「第二回世界連邦平和促進宗教者会議」でも役員をつとめた。

精力的に活動する先輩の加藤に何度か接している森下さんは、当時の加藤についての印象をこう言い表わす。

「加藤さんはアメリカの南部の地域を舞台にした地方色豊かな文学にあらわれる熊(クマ)のようなイメージです。恰幅がよく大柄で、ゆったりとしていて温かい。やさしい熱血漢といった人でした」

加藤を知る数少ない他の人とおなじような印象を持っていた。また、世界連邦という国境を越えて世界がひとつの政府となる理想のもとで、「地球市民」という概念を広げることに熱心だったと森下さんはいう。

森下さんが教えてくれた「世界連邦運動ヒロシマ25年史」(1972年6月刊)のなかで、加藤が書いている「あとがき」や、同運動の1972年ごろの要点から地球市民と加藤の考えがわかる。


いち早く地球市民登録

もともと「地球市民」という概念を提唱したのは、国連事務総長のウ・タントだった。「『地球市民キャンペーン』はウ・タント国連事務総長(当時)が国連運営十ヵ年の苦心から、国連が弱いのは、国家主権固執の各国の体質からで、その主権者である人民に地球人運命共同体意識を培うことが先決ということから提唱。WAWF(World Association of World Federalists=世界連邦主義者世界協会=世界連邦運動の前身)がこれを採りあげ、ウ・タント氏を『地球市民第一号』と宣言し運動を開始したものであり……」と、あとがきで加藤は書いている。

「第一号宣言」をしたのは、世界連邦主義者世界協会会長のノーマン・カズンズで、この運動を世界的に展開し地球市民登録を募った。

 日本でもこれに呼応する動きがおこった。広島で「地球人友の会」をつくっていた加藤は、さっそくWAWFに地球市民登録をし、日本の運動に先鞭をつけた。加藤に続いて広島市の山田節男市長らがつぎつぎと登録した。ここでも加藤の行動力が示されている。

1972年8月にブラッセルで開く第15回世界連邦主義者世界協会世界大会の運動方針として、広島からは、日本側が提出する「地球人相互競存宣言案」なる原案がつくられた。この中心になったのも加藤とおもわれる。

「共存」ではなくあえて「競存」という造語をつかっている。競い合うことは認めながら共存する、という意味のようだ。


われわれは運命共同体 

この地球人相互競存について、加藤が「25年史」で以下のように説明している。

「われわれ人類は、宇宙生命力の大法則下にある一惑星の地球上に住む運命協同体『地球人』であり、全人類の尊厳、自由と平等と同胞愛による相互愛を深く尊ぶものである。

われわれ人類は、地球人同胞として、人種、皮膚の色、性、年齢、宗教および政治的信条のちがいは自然であり、また集団制度、理想の相違は、人類の創造的発展、幸福のため刺激的な要因とするものである。

われわれ人類は、かかる相違の中の多様性の上に永続する普遍的相互競存の生活法則を創造することは、あらゆる老若男女も当面する責務であり、恒久平和実現(世界連邦)への生きがいとするものである」

さらに、あとがきの最後を、世界連邦主義者(フェデラリスト)として日本人が担える役割に期待して、古めかしい言い方ながら決意をもってこう締めくくっている。

「日本のフェデラリストは、この地球的単位時代の世界維新に光栄ある志士『日本』の尖兵になり得るや否や。それは後世の歴史の審判にまつのみ」

高邁だがともすれば現実離れした理想とも思える加藤の言葉は、奇しくも「コロナ禍」、「気候変動」という地球的な課題を抱えた世界がいままさにかみしめるべきもののようだ。

(敬称一部略)

第27回 >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第25回 世界連邦建設への訴え

行動するジャーナリストである加藤新一は、書き残したものはすくない。少しでも本人の書き残したものがないか、故郷広島の「広島平和記念資料館」の「平和データベース」で「加藤新一」で調べてみた。すると本と雑誌のなかからいくつか加藤の書いたものがでてきた。

その一つに「平和競存の創造」という出版物がある。「著者 加藤新一著編」、「出版者 地球友の会」、「出版年 1971年12月20日」、「頁数47」となっている。それ以上はわからないので、同資料館内の情報資料室を訪ね、実物を見せてもらった。

それは、どうやらいわゆる自費出版的な冊子で、奥付には編集者加藤新一、発行人加藤新一とある。発行所は「地球人友の会」となっているが、その横の所在地をみると加藤の自宅住所と同じだった。さらに書名の横には小さく「非売品」とある。

「編著者略歴」の最後には、「現在は、世界連邦広島協議会理事長。ワールド・フレンドシップ・センター理事。地球人友の会世話人。」となっている。推測するに、地球人友の会は加藤が立ち上げたもののようだ。


ハワイに世界連邦研究会を

本書のなかで、加藤は「アメリカに渡り世界連邦を説く ハワイに世連研究会が発足」と出した評論を書いている。冒頭にある説明によると、この文章は加藤が1970年8月から3ヵ月アメリカを訪問した際、ロサンゼルスの邦字紙『羅府新報』に連載した「宇宙時代の指標」と題して寄稿したもので、アメリカ在住の日系人に対して書いた。

また、加藤がアメリカ往復の途中、ハワイ・ホノルルに5泊して、現地のラジオ放送や新聞に啓蒙活動をおこない、講演や座談会を開いた。そして1970年11月中旬に、ホノルルに世界連邦研究会を発足させたという。ここからも加藤の旺盛な行動力がわかる。

評論の本論では、アメリカ社会での世界連邦の意義などを在米の日系人に向かって熱く語っている。以下、部分的にそのままを紹介しよう。

「米国連邦制を世界的に」

世界連邦運動とは、在米日系人の皆さんには縁遠いことのようですが、それはただ現在のアメリカ合衆国の連邦制度を世界的に拡大するにすぎません。また東西両陣営の無意味な軍備競争や紛争での高い税金の悩みを軽減することであり、さらにいまアメリカ社会のガンとなっている黒人問題の解決策にもつながる最も身近で切実な問題であることをご存じの人々は案外少なくないようです。

欧州の封建的な古い社会からのがれて米大陸に渡り自由の新天地を拓いた英雄的で人道的なアメリカ人が、その建国精神にもどり、新しい世界全人類的な平和競存時代の先頭にキリスト教国として立たなければ後世の笑いものになることを憂慮します。

「アメリカぼけ」日系人

あまりに極端なようですが、日本のような戦争に敗れ、人類最初の原爆体験者(特に私たち広島県人は)であり、資源に乏しい島国に一億余の大人口を抱え、しかも東西両陣営の谷間ですでに国境を越えての体制争奪戦場にさらされている内地人のわれわれには、失礼ながらアメリカの人々全体が「アメリカボケ」しているようにうつるのです。

世界連邦とは、アメリカの人々にとっても対岸の火災視どころか、世界人類全体の切迫した問題であり、とくに高い税金難と黒人問題では足許に火がついているのです。税金を安くする最も早道は、国連を世界連邦的に強化して各国の軍備を漸減することであり、黒人問題解決も、世界連邦を実現するほどの人々の頭が人類一体観にまで成長しなければダメです。

(中略)

世界連邦運動はアインシュタイン博士や湯川秀樹博士ら核物理学者が、広島や長崎への原爆投下に対し、いち早く唱え、日本では故尾崎行雄翁が昭和21年春の国会に世界連邦建設を日本の国是にする決議案を出したことは有名です。

日本のこの運動の中心である世界連邦建設同盟は昭和23年8月6日(広島の原爆記念日)に東京で尾崎行雄総裁、賀川豊彦副総裁の陣容で発足したことでもわかるように、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という広島原爆慰霊碑の誓いによる使命感で運動が展開されています。

(中略)

日本は国連中心の平和主義という目標を持ちながら一億一心、忠君愛国で惨めな敗戦を体験して国家目標に尻込みし、戦後は大人も生活目標を持ち得ずただガムシャラに経済大国にのし上がったが、お先真っ暗のため、若い世代は将来に希望が持てず、ゲバ棒の暴力デモか、ヒッピー族、ゴーゴー族に走る現状で、諸外国からは「経済動物」といわれはじめています。

世界連邦運動こそは、戦争放棄の平和憲法を奉ずる日本の国是であり、日本の海外発展の基本理念であると同時に、それは世界人類(アメリカの人々も含め)の生活目標として永久不変であります。

これは戦前の一億一心的スローガンとちがい、いくら推進しても、推進しすぎず、バカを見ることはない「宇宙時代の指標」として第二回宗教者平和大会がその基調テーマにしたわけもそこにあります。(後略)

このように加藤は、冷戦時代でもある当時、東西間の緊張関係を憂慮し、両陣営の軍拡競争を非難している。アメリカ社会に対しては当時の人種間の軋轢への解決を同時に視野に入れている。その一方で、戦後の日本社会は掲げるべき理想を忘れ、ひたすら経済活動のみに邁進していることを問題視している。

こうした考えの根本にあるのは、なにより自分の広島での被爆体験である。このあと加藤は、さらに活動の幅を広げ国連の事務総長にも訴えるなどの行動にでる。

(敬称一部略)

第26回 >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第24回 「広島北米クラブ」に尽力

最期は日本で迎えたい 

二度目のアメリカ滞在で、新日米新聞社の主幹として1961年に「米國日系人百年史」をまとめた加藤新一は、まもなく新日米新聞社を離れ、1970年日本に帰国する。ふりかえれば、1900年に広島で生まれ、18歳で父親に呼ぼ寄せられカリフォルニアに渡った加藤は、日米開戦直後に帰国、1953年に再渡米、そして1970年再び日本にもどってきた。日米二往復の人生である。

ひとり息子はロサンゼルスの東京銀行で働き、孫もアメリカ生まれのアメリカ人である。一方日本には甥がいるほか、そのほか近しい親族はいない。それがなぜ日本へ帰ったのか。甥の吉田順治さんによれば、「最期は日本で迎えたい」というのが、本音のようだ。

若いころはカリフォルニアで農業に従事し、やがて日本語新聞の記者や編集者となり、戦後は一世を訪ね全米を車で走り回ったほど、アメリカ社会になじんだ加藤だが、どうやら“死に場所”は、郷里の広島と決めたようだ。

加藤のそれまでの足跡をたどると、彼が入れ込んだ二つの大きな人生のテーマが見えてくる。ひとつは、日系の移民としてアメリカで生きた体験からのめりこんだ「アメリカ移民」である。そしてもうひとつは、弟妹をなくした原爆の体験から生まれた「平和の希求」である。

アメリカで一世を訪ね、その記録をまとめた加藤は、70歳で日本に帰国すると平和運動と移民にかかわる問題で精力的に活動をはじめる。重点は平和運動の方だが、これについては、晩年の活動としてのちにまとめるとして、先に、広島からアメリカへの移民に関わる問題での加藤の動きについて紹介したい。

新聞記者として紙面づくりに長年携わった加藤だが、1972(昭和47)年1月22日付の地元中国新聞広島版の「『広島北米クラブ』近く誕生」という記事に、取材される側としてその名前が登場する。広島から北米へ移民した同胞が郷里広島と交流を持つ際にスムーズに事が運ぶように「広島北米クラブ」という団体が広島に誕生、この発起人として加藤の名前が代表してあげられていた。

広島県が全国有数の移民県であることは以前にも触れたが、2017年のJICA横浜海外移住資料館による企画展示「広島から世界へ」のまとめによれば、広島県からは戦前戦後あわせて約11万人が、ハワイをはじめ、北米、南米に移住している。その数は、109,893人で全国一位で、つづいて沖縄(89,424人)、熊本(76,082人)、山口(57,837人)、福岡(57,684人)となっている。


海外から故郷広島に援助の手が

日本を離れたとはいえ、海外に渡った日本人の故郷を思う気持は強く、広島県人はことのほか意識がたかったようだ。それは戦争そして原爆と深い関係にある。故郷が原爆に遭い、困窮していることを知った、北米、南米の広島県人会からは多額の救援金が広島へ送られた。

加藤のいたロサンゼルスの南加広島県人会からは、400万円が送金され、それをもとに広島市に児童図書館が建設されたという。

「2017年春海外移住資料館だより」によれば、「ハワイ、北米および中南米で、9ヵ国に28地域の在外広島県人会が組織され」、「広島県は、海外における重要なネットワークである在外広島県人会が主催する記念行事への訪問団の派遣や、県人会指定の広島への招へいなど、さまざまな交流事業を実施している」。

この28地域の広島県人会の数は、アメリカ本土に12、ハワイに4、カナダに2、中米はメキシコとドミニカにそれぞれ1、また、南米ではブラジル、アルゼンチン、パラグアイに2、ほかペルー、ボリビアにそれぞれ1、となっている。

このなかで最も設立が古いのは、アメリカ本土の「桑港広島日系人会」(サンフランシスコ)で1898年1月、つづいて「シアトル広島クラブ」が1901年1月、サクラメント広島日系人会が1906年となっている。その歴史は1世紀を超えている。


移民と故郷のパイプ役

このように海外の広島県人は結束が固かったが、先述した1972年1月の新聞記事は、こう書き出している。

移民県“広島”。ところが外国にいる県人、団体で故郷に帰るに当たっても連絡する窓口一つないありさま。帰っても、うろうろするばかりでアメリカ在住の県人からパイプ機関の不備が訴えられていた。そこで、この要望にこたえよう—と、まったくの民間ベースで二十六日「広島北米クラブ」が誕生する。もちろんこの人たちと故郷とのパイプ役を果たすのがおもなねらいだが、発起人側は「移民時代は終った。国際化時代に備えて貿易など相互の窓口にもしたい」と、幅広い活動を目ざしている。

以下、記事によれば、このクラブ発足の準備を進めているのは広島県貿易協会で、事務局は同協会内に置く。クラブに参加するメンバーは、個人としては、かつてアメリカにいたが、この当時は帰国して広島県内に移り住んでいて、住友銀行広島支店や東京銀行広島支店を通じて毎月3−6万円のアメリカの年金など送金を受けている人たちだ。また、個人のほか、広島県内の40の貿易業者もメンバーとして加入する。

この内容からすると、加藤もアメリカからなんらかの送金を受けていると思われる。記事では、クラブ立ち上げの発起人としては加藤の名前だけがあがっていることなどからしても、このクラブは加藤が中心とみていいだろう。

ところで、記事中の加藤の肩書は世界連邦広島県協議会理事長となっている。思い出していただきたいのだが、1952年11月、広島で「世界連邦アジア会議」が開かれた時、加藤は事務局長をつとめた。その直後、再渡米してからはロサンゼルスの新日米新聞社で働いたが、70年に日本に帰ってきてからはすぐさま、世界連邦など平和に関する運動に打ち込んだ。

1970年8月、被曝25周年を迎えた広島では、「第二回世界連邦平和促進宗教者会議」が開かれた。このとき、加藤は大会の事務局次長をつとめた。ことによると、この大会のためもあって加藤は日本への帰国を決めたのかもしれない。帰国を機に、加藤は最期まで精力的に平和運動に関わっていく。      

(敬称一部略)

第25回 >>

 

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