アケミ・キクムラ・ヤノ
(Akemi Kikumura Yano)
アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。
2012年2月更新
この執筆者によるストーリー
一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その5
2011年1月31日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
>>その41909年日本人大ストライキアメリカ労働省長官は、1900年にハワイで起こった22件のストライキのうち、20件に日本人労働者が関与していたと報告している。その4年後、彼らはさらに強い組織力と団結力を発揮して、ワイパフのオアフ砂糖会社耕地において、約1,600人がストライキを行なった。1909年には、それをもはるかに上回る規模、組織力、期間の空前の日本人大ストライキが発生した。このストライキは、オアフ島内の主だった5つの耕地で、7,000人に上る労働者が、一世実業家…
一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その4
2011年1月24日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
>>その3「おい、沖縄」ほとんどの耕地では、労働者たちは出身国別に異なるキャンプに住んでいた。 異人種の食事、服装、言葉などは相互に取り入れていたものの、人種を超えた付き合いは無かった。また同じ人種の中でも、ある程度の区別が出身地方の違いによって存在していたようである。 日本人では、「内地(北海道、本州、四国、九州出身者)」と「ウチナンチュウ(沖縄出身者)」の社会的距離が大きかった。日本列島から遠く離れていた沖縄には、独特の方言、音楽、舞踊、武術、料理などが発達していたの…
一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その3
2011年1月17日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
>>その22.耕地生活と労働19世紀中、最後に導入された労働移民であった日本人は、ハワイの耕地システムの最下層に編入された。1892年には、日本人は全労働力の65%を占めたが、賃金、住居ともに最低のものだった。熟練を要する仕事や監督者(ルナ)の仕事は、ほとんど全て白人に割り当てられた。1ハワイで日本語新聞を発行していた相賀安太郎は、白人耕地経営者と日本人労働者の格差が、徳川時代の大名と農民のそれより大きいことを指摘した。彼は、それがかつてのアメリカ黒人奴隷と白人の関係に似て…
一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その2
2011年1月10日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
>>その1日本の状況日本人移民たちは故郷を離れた寂しさと過酷な労働に苦しんでいたが、給料日がくると母国を離れた理由を思い出し自分を励ましていた。「3年で400円」という目的があったのだ。当時、日本で同じ額を貯めるには、日雇い労働者は7年、製糸工場労働者は10年もかかったのである。ハワイにおける耕地労働者の1ヶ月の賃金が17.65円であったのに対して、1884年における広島県農民の年間所得は14.48円、1885年はわずか9.98円であった。1 明治政府は急速な近代化に必要…
一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その1
2011年1月3日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
1. ハワイへの旅1885年2月8日、日曜日。夜明けとともにハワイ行き汽船シティ・オブ・トキオ号の乗船客たちの気持ちは高ぶっていた。遂に陸地が見えたのである。坂チカとその夫庄七は、二人の息子エイゾウとヨシタロウを起こした。坂一家がデッキに上がると、ホノルル港を取り囲む青々とした山々が次第に水平線上に浮かび上がってくるのが見えた。 この船の疲れ果てた旅人たちが日本を出発したのは、ほぼ2週間前のことだった。坂庄七と妻のチカは、横浜でハワイの砂糖きび耕地で3年間働く労働契約書に…
昔話 - 第4部
2010年12月9日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
パート3を読む>>現在、ファウラー周辺には約 100 世帯の日系アメリカ人が暮らしています。主な収入源として農業を続けているのは 3 世帯のみです。これらの世帯の約 90% は仏教教会に属しており、教会関連の活動がコミュニティの団結力として認識されているようです。しかし、教育の向上、雇用機会の不足、文化的価値観の変化、異人種間の結婚、白人優位の社会による社会的受容の高まりにより、三世と四世 (3 世と 4 世) が田舎のコミュニティ生活の境界を離れるようになったため、多くの…
昔話 - パート 3
2010年12月2日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
後編 2 >>子供たちは日本人コミュニティの希望を抱き、アメリカ生まれの市民として、一世が認められていない権利を享受できることになった。しかし、社会的、経済的障壁がコミュニティを悩ませ続けたため、二世の将来はそれほど明るいとは思えなかった。1913年、州は特に日本人を対象とした最初の外国人土地法を可決し、土地の所有を禁じ、賃貸期間を3年に制限した。阿部夫妻のように、農場の所有権をアメリカ生まれの大崎夫妻の長男の名義にすることで、法律を回避した一世もいた。外国人以外のメンバー…
昔話 - パート2
2010年11月25日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
パート1を読む>>>ファウラーにたどり着いた女性たちは、主に男性の利益が優先する、活気のある日本人コミュニティを発見した。郡内の多くの町と同様、ファウラーの日本人コミュニティは、彼らより前に移住した中国人とともに「線路の反対側」に位置していた。中国人の数は 1870 年代には 500 人で、フレズノ郡最大の移民グループだった。人種間の対立により、日本人と中国人、および他の少数民族 (ドイツ系ロシア人、イタリア人、アルメニア人) は、それぞれのコミュニティの経済的、社会的、精…
昔話 - パート 1
2010年11月18日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
1981 年の夏、私はロサンゼルスからテハチャピ峠を通り、サンホアキン渓谷の平らで乾燥した谷底に降りていきました。サンホアキン渓谷は世界最大の谷のひとつで、かつては広大な内海の底でした。長さ約 250 マイル、幅 40 マイルから 65 マイル、北はサクラメントから南はカーン郡まで広がり、西はディアブロ山の稜線、東はシエラネバダ山脈に囲まれています。1私はフレズノ郡の中心にある小さな農業都市ファウラーに向かった。そこで私は、世紀の変わり目からこの地域に定住してきた日系アメリ…
日系アメリカ人コミュニティが直面する現代の問題
2008年2月14日 • アケミ・キクムラ・ヤノ
現在、米国の日系アメリカ人コミュニティは多くの課題に直面しています。これらの課題の根底にあるのは、日系アメリカ人コミュニティがますます複雑化し、分散し、多様化しているという事実です。もはや、共通の信念と歴史的経験を共有する一世、二世、三世という世代で日系アメリカ人コミュニティをきちんと定義することはできません。日系アメリカ人の 3 人に 1 人が混血または人種的血統であり、第二次世界大戦後の日本で生まれた「新一世」または「新一世」とアメリカで生まれた二世の子供たちの移民の数…
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