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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/9/14/ongawa-michitaro/

シカゴの宣教師たちと日本人 ― オンガワ道太郎

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ハリー・北野は著書『Generations and Identity: The Japanese American』の中で、「日本に行った初期キリスト教宣教師たちの伝道はうまくいかず、むしろ渡米してきた日本人移民たちが彼らにとってよき伝道対象となった」と書いている。が、北野の分析は、シカゴの日本人にはあまりあてはまらない。むしろ日本での伝道が成功したからこそ、日本人がシカゴにやってくるようになったといわんばかりだ。その一人がオンガワ道太郎こと小川道太郎である。 

オンガワ道太郎(The Democratic Advocate, August 30, 1918)

小川道太郎がシカゴにやってきたのは1871年4月、12歳の時である。長老派の宣教師であるクリストファー・カロザスの妻ジュリアが、日本からアメリカに一時帰国したときに連れてこられたのだった。 

カロザスは1867年にシカゴ大学を卒業、1869年にシカゴにある長老派の神学校を卒業して、ジュリアとともに横浜に向かった。宣教師たちは横浜の居留地に住み、日本人に英語やキリスト教を教えた。道太郎はジュリアが教える生徒の一人だった。

教会は、優秀な道太郎にアメリカで宣教師の訓練を受けさせ、日本へ送り返そうと考えていた。そこで、ジュリアは、ウィスコンシン州マディソンにいる、同じく長老派の牧師である自分の父親、リチャード・ドッジに道太郎を預けた。1年の休暇を終えると、ジュリアは、道太郎を残して、夫のいる日本に戻っていった。

この頃、シカゴ大学に日本から留学生がやってきた。旧島津藩藩主の松平忠和一行4人で、カロザスの紹介状をもっていた。1872年春、シカゴ大学で一学期だけCollegiate Department のPartial Coursesを受講した記録が残っている。

道太郎が、ドッジ牧師のもと、ウィスコンシン州マディソンで生活したのはわずか1年ほどだった。ドッジ牧師は、道太郎を預かった翌年の1872年、サンフランシスコへ“転勤”することになったため、道太郎をイリノイ州ウッドストックにあるTodd School for Boys(トッド学校男子校)に送ったからである。この学校は、ドッジ牧師と同じくニュージャージー州のプリンストン神学校を卒業したリチャード・トッド牧師が開いた学校である。ここで、道太郎は5年ほどを過ごした。

イリノイ州ウッドストックにあるトッド学校男子校 (Combination Atlas Map of McHenry County by Eversts, Baskin & Stewart, Chicago, IL, 1872)

ジュリアによると、道太郎は人を喜ばせるのが好きな性格で、学校でもなかなかの人気者だった。トッド学校時代の道太郎は、教会関係者に招かれて、何度も講演した模様である。たとえば、1877年5月24日、シカゴのハーシーホール(Hershey Hall)で開かれたLadies Foreign Missionary Board(女性外国人宣教師会)主催の講演会では、道太郎は、女性宣教師の仕事をほめたたえた。

1878年にトッド学校を卒業すると、道太郎はシカゴの北にある長老派系のレイク・フォレストカレッジ(Lake Forest Collage)や、1879年にはシカゴ大学に籍を置いた記録があるが、どちらの学校も卒業したかどうかは不明である。

1880年の国勢調査は、イリノイ州に住む日本人をはじめて記録したが、その日本人3人のうちの1人が道太郎である。当時、道太郎は21歳の独身で、会社の事務員をしていた。1884年には市民権を取得、イリノイ最初の日本人帰化市民となった。当時は5年のアメリカ滞在で帰化できたのである。

果たして成人した道太郎は、かつて教会が望んだように宣教師になったのだろうか。

ならなかった。 道太郎は、シカゴの銀行や商工会議所で事務員をしながら、宣教師ではなく「人を喜ばせる」エンターテイナーの道を歩みはじめた。そのきっかけは、音楽教師の白人女性クララ・ペイジとの出会いと1891年の結婚だったかもしれない。

クララは、シカゴ市内や郊外の音楽界ではなかなか名を知られた存在だった。1896年には、シカゴの西、オースティンの町でオペラ「ミカド」に出演したり、ベートーベンクラブを立ち上げたり、教会コーラスを指導するなど活躍していた。 

1909年ごろにクララは、歌唱とハーモニーの指導のためブリス音楽学校の教師として採用され、二人は建築家フランク・ロイド・ライトの自宅兼スタジオで有名なオークパークに引っ越した。そのころ道太郎はまだ銀行に勤めていた。

オンガワ夫妻(The Star Press, April 27, 1913)

1910年代に入ったころからである。 当時のジャポニズムの流行に押されるようにして、二人が着物を着て、日本語で歌を歌い、三味線をひき、踊り、英語でミュージカル仕立ての芝居をして、日本文化や日本人の生活紹介を始めたのは。1913年には、自分たちが創作した、ラフカディオ・ハーンの世界にも似た英語劇「Along the Road to Tokyo」を演じながら、アイオワ、ミズーリ、カンサスといった中西部の町を回るようになっていた。白人女性と日本人男性という組み合わせがもの珍しかったのだろうか。二人の公演は大きな人気を博し、20世紀初頭から1920年代まで盛んだったアメリカの大衆教育運動チャタウクアにも参加、興行会社と契約を結んで、全米を回った。

創作劇も「A Glimpse of Japan」、「Japanese Sketch」とレパートリーを増やし、1920年代には、ニューヨークのコロンビア大学やノースカロライナ大学、テキサスのライス大学と全米各地の高等教育機関での公演も増えた。オンガワ夫婦は、今風に言えば、多文化教育トレーナーといった存在で、今日の多文化教育の先駆者だったのである。

オンガワ道太郎の面白さは、彼がいつ日本語の歌や踊り、三味線を習ったか、に思いをめぐらす時にある。12歳で渡米したときに、すでに一通りの技術を身につけていたのではあるまいか。12歳の少年が三味線をもって渡米したとはなかなか想像できず、道太郎は一体どこで三味線を手に入れたのだろうか、などと考えると、案外つかず離れずの距離感で、シカゴの日本人コミュニティとつながっていたのかもしれない。実際、日本人の領事も出席するパーティや日本人の小さな集まりにも、道太郎はときどき顔を出していたようだ。

そしてクララである。彼女に日本語の歌や踊り、三味線を教えたのは、やはり道太郎だろう。しかし、習うのは難しくなかったのだろうか。一体二人は、どんな劇を演じていたのだろうか。100年以上前の二人の姿を一度見てみたいと興味をかきたてられるのは筆者だけだろうか。

クララ・オンガワ(Statesman Journal, June 19, 1917)

オンガワ道太郎に会った日本人がいる。1899年頃シカゴのMoody Bible Instituteで学んでいた井上織夫は、20年後、ニューヨークで道太郎について次のように語っている。

「12歳の時洋行して、30年以上米国にあるのであるから、日本語を知らぬも無理からぬことであるが、それと同時に全く日本を忘れ、唯一の伯父を忘れ、また実に自ら日本人たることを忘れていたのである。同化という点からいえば、理想的であるかもしれぬが、在米同胞の児童が将来かくのごとき者となることを私はどうしても希望することができぬ。」 

シカゴの日本人が、子弟の日本語教育にはそれほど興味を示していなかったことは、1920年代にシカゴにやってきて、レストランを経営した河野増登も気づいていた。「白人社会にたった一人」の感覚を、まるで身体の一部でもあるかのようにして生きる者にとって、日本語とは何だろう。当然人それぞれの答えがあろう。その答えの多様性こそがアメリカで生きるということかも知れない。

シカゴの西、フォレストパークの町にあるフォレストホーム墓地の管理事務所が教えてくれた墓地番号、セクション43、ロット113 S1/2、に墓石はない。オンガワ道太郎、享年79歳、1869年2月21日東京生まれ、1938年7月30日シカゴにて死亡。誰にも知られることのない、ぽっかり空いた地面の小さな一画が、シカゴ定住日本人第一号の墓である。

フォレストホーム墓地にあるオンガワの墓

戦中戦後、フォレストホーム墓地は、白人以外の埋葬を拒否する決定を下した。道太郎の墓碑がないのも、もしかしたら撤去された結果かもしれない。が、たとえそうであったとしても、シカゴに最初に定住し、骨を埋めた日本人の“国際結婚”は、移民のダイナミズムが創りあげた大都市シカゴにふさわしい、幸せなものだったはずだと、私は道太郎が埋められている土の上に立ち、手を合わせたのだった。

 

*このエッセイは、英語版「Michitaro Ongawa: The First Japanese American Chicagoan」(2016年12月7日)がもとになっています。

 

© 2022 Takako Day

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このシリーズについて

これまで日本人移民史といえば、ハワイと西海岸を中心にして語られてきた。日本人の人口が多く、日本町では多くの物語が生まれたからだろう。戦前シカゴには日本町はなかった。国勢調査によると、日本人の人口は1930年が最大だったが、524人を数えたにすぎず、中国人2757人の5分の1ほどだった。1930年のシカゴ市の人口は約338万人。その中の500人あまりは、吹けば飛ぶような存在と見なされても当然だろう。

しかし、そうではなかった。数は少なかったが、日本人には存在感があった。「たった一人」の存在感である。それはまさしく、未開の土地を自分の手で切り開いていったアメリカ人のパイオニア精神にも匹敵する存在感といってもいいだろう。戦前シカゴの日本人は、今日まで続く日本人に対する一般的なステレオタイプ、たとえば集団で行動するとか「顔」が見えないといったイメージを自らの手で破り、生き生きとシカゴで生活していた。このシリーズでは、「たった一人」でシカゴのアメリカ社会に向き合ったユニークな日本人たちを紹介する。

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執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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