戦前シカゴの日本人

これまで日本人移民史といえば、ハワイと西海岸を中心にして語られてきた。日本人の人口が多く、日本町では多くの物語が生まれたからだろう。戦前シカゴには日本町はなかった。国勢調査によると、日本人の人口は1930年が最大だったが、524人を数えたにすぎず、中国人2757人の5分の1ほどだった。1930年のシカゴ市の人口は約338万人。その中の500人あまりは、吹けば飛ぶような存在と見なされても当然だろう。

しかし、そうではなかった。数は少なかったが、日本人には存在感があった。「たった一人」の存在感である。それはまさしく、未開の土地を自分の手で切り開いていったアメリカ人のパイオニア精神にも匹敵する存在感といってもいいだろう。戦前シカゴの日本人は、今日まで続く日本人に対する一般的なステレオタイプ、たとえば集団で行動するとか「顔」が見えないといったイメージを自らの手で破り、生き生きとシカゴで生活していた。このシリーズでは、「たった一人」でシカゴのアメリカ社会に向き合ったユニークな日本人たちを紹介する。

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シカゴの女性宣教師と日本人女性たち - その2

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長老派のサラ・カミングスに導かれて、1886年にシカゴにやってきたのが菱川やすである。1871年に婦人一致海外伝道局が横浜に開いたミッション学校(The English Speaking School for Japanese Young Ladies — のちの横浜共立学園)を卒業したやすは、金沢でサラの手伝いをしながら、医学の手ほどきを受けた。シカゴでは、サラの母校、シカゴ女子医科大学に入学、1889年に卒業した。専門は婦人科と小児科だったやすは、卒業後すぐには帰国せず、シカゴで孤児たちの施設(Foundlings Home)に住みこみ、研修を積んだ。やすは、1890…

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シカゴの女性宣教師と日本人女性たち - その1

戦前シカゴにやってきた日本人の掘り起こしを進めていて、一番心を惹かれ、元気をもらうのは何といっても明治女性たちの心意気と才能に触れるときだ。彼女たちのエネルギーから浮きあがってくるのは、出会いに彩られる人生の不可思議と歴史なるものの滋味・妙味である。

戦前シカゴの日本人の特徴はクリスチャンが多かったことだ。25年以上にわたってシカゴの日本人を対象に伝道活動を行った島津岬は、1914年に日本人キリスト教会を設立した。一方、仏教会は、収容所からシカゴへの転住者が増える1944年まで存在しなかった。ハワイでは1894年、サンフランシスコでは1899年に仏教会ができていたのとはいい対照を見せている。 

今からさかのぼるこ…

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シカゴの宣教師たちと日本人 ― オンガワ道太郎

ハリー・北野は著書『Generations and Identity: The Japanese American』の中で、「日本に行った初期キリスト教宣教師たちの伝道はうまくいかず、むしろ渡米してきた日本人移民たちが彼らにとってよき伝道対象となった」と書いている。が、北野の分析は、シカゴの日本人にはあまりあてはまらない。むしろ日本での伝道が成功したからこそ、日本人がシカゴにやってくるようになったといわんばかりだ。その一人がオンガワ道太郎こと小川道太郎である。 

小川道太郎がシカゴにやってきたのは1871年4月、12歳の時である。長老派の宣教師であるクリストファー・カロザスの妻ジュリアが、日本からアメリカ…

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