
1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。
(2022年9月 更新)
この執筆者によるストーリー

梅子と筆子のシカゴ
2024年2月7日 • デイ 多佳子
日本の女子教育家で津田塾大学の創始者である津田梅子のことは、日本人の誰もが知っていると言っても決して過言ではなかろう。梅子はシカゴに2回やってきた。 梅子が初めてシカゴに足を踏み入れたのは1872年2月のことである。100人を超える岩倉使節団がシカゴにやってきたときだ。使節団には5人の少女が含まれていたが、梅子はそのうちの一人で、最年少の8歳だった。地元紙は、少女たちのことはほとんど話題にしなかった。 というのも、シカゴに来るまで、付き添いのアメリカ公使デロング夫人…

第5章 シカゴでの最後の年
2024年1月14日 • デイ 多佳子
パート4を読む>>転機を迎える戦時中、アジアとアメリカ大陸への声明の中で、田代は自身の家族について次のように述べている。何年も前、私の両親は、ジョン・M・ロス夫妻という名の素敵なスコットランド人が経営するハカラン砂糖農園への移民として日本からハワイにやって来ました。私は星条旗の保護の下、ハワイで生まれました。両親は常に、誠実さと信仰を主張し、私が良きアメリカ国民として教育を受けられるよう努めました。両親は私を完全にアメリカの教育機関で教育しました。私はアメリカ国民であり、自…

第4章 戦争の影の中で
2024年1月7日 • デイ 多佳子
パート3を読む>>日本の立場を守る 日系アメリカ人としての自身の立場について、タシロ氏は次のように説明した。「私は日系アメリカ人として二国の間に立ち、両国の友好関係を促進したい。現在の日中対立について、日本がいかに正しいかを証明し、一部のアメリカ人の誤解を正すために、対立の背景と理由を説明するのは二世の義務である。私たち自身が優柔不断で、どうやって他人を納得させることができるだろうか。日系アメリカ人として、二世は日本の立場を100%支持すべきである。」 1田代氏がこうした会…

第3章 若い二世とその未来のために
2023年12月24日 • デイ 多佳子
パート2を読む>>刺激的な二世の若者たちタシロの最も重要な関心事の一つは、若い日系アメリカ人二世の将来と、日米関係における彼らの立場であった。彼の元教師である浅野は、タシロがハワイの若い二世の状況を改善するためにどれほど熱心に尽力したかを語り、かつてタシロが彼らのために南米に行って事業を立ち上げたいと希望したことがあったと述べている。1インターナショナルハウスでの生活タシロはシカゴの若者にも刺激を与えた。1932年にシカゴ大学キャンパスの東59番街1414番地にインターナシ…

第2章 日米関係について
2023年12月17日 • デイ 多佳子
パート 1 を読む >> ALOHA野球チームでプレー1922 年 5 月、シカゴのハワイ学生協会の設立と同時に、 ALOHA 野球チームが結成されました。このチームは主にシカゴの大学に通う協会のメンバーで構成されていました。1 田代自身も ALOHA 野球チームでキャプテンとキャッチャーとしてしばらくプレーし、ウィルフレッド ツキヤマはピッチャーでした。2 人ともホノルルのマッキンリー高校で野球をしていました。2アロハ・チームの初戦は1922年5月13日、ワシントン・パー…

第1章 ハワイから中西部へ
2023年12月10日 • デイ 多佳子
1910 年代、ハワイから来た日系人が、シカゴのどこに行ってもハワイの友人や知人の息子にばったり会ったことに驚いたと新聞に書いたことがある。彼らは、ハワイに近いにもかかわらず、西海岸に立ち寄ることなく、ハワイから直接シカゴにやって来たのである。1結局、ハワイに住む二世の多くが西海岸ではなくシカゴに移住した理由の 1 つは、イサム・タシロという男性が彼らを奨励したためであった。田代自身はハワイを離れ、ハワイの若者にとって非常に人気のある夢のような場所であったシカゴに渡り、歯…

無名戦士たちの墓
2023年8月29日 • デイ 多佳子
シカゴに日本人墓地ができたのは、1935年1月に設立された日本人共済会の努力のたまものである。もともと共済会は、会員百数十名から50セントの会費を集め、会員が病気になったときは医師及び入院の世話、死亡の際の葬儀及び死亡手続きの一切をひきうけることを目的に設立された。と同時に、設立当初から、共同墓地購入と基本金確保を目的に、約1000ドルの寄付を同胞から募集する運動も開始した。 当時、シカゴ市内のどの墓地も日本人にはなかなか土地を売ってくれなかったという。しかし共済会は、設…

第6部: 太平洋を越えて
2023年4月30日 • デイ 多佳子
パート5を読む>>シカゴ日本領事夫人が名誉会長として現地の日本人女性活動に関わるようになったことで、婦人会の性格は徐々に変化していったのでしょうか。日本政府の報告書によると、シカゴ日本人婦人会(婦人会)は1924年にシカゴ日本婦人会館(747 East 36th)で設立されたと記録されています。1シカゴの婦人会のメンバーは、日本の女性問題にためらうことなく取り組みました。婦人会は、シカゴに来た日本のさまざまな団体の女性活動家と深いつながりがあったからです。日本人女性の国際的…

第5回:同志としての新たな日本女性たち — 婦人会
2023年4月23日 • デイ 多佳子
パート4を読む>> 1920年代はアメリカの女性参政権運動の成功とともに始まり、その頃、当時の素晴らしいアメリカ女性のエネルギーに吸い上げられたかのように、新しいタイプの日本人女性がシカゴにやって来ました。彼女らは、日本の大正デモクラシーの社会的影響下で教育を受けたリベラルな女性たちでした。米は、日本からの先進的な考えを持つ女性たちを心から歓迎しました。 1920 年 6 月、日本から来ていた松本孝文さん、古賀文さん、堤幸治さんがヨネさんとともにウーマンズ シティ クラブ…

第4部: 第一次世界大戦 - アメリカに対する日本の忠誠心
2023年4月16日 • デイ 多佳子
パート3を読む>>日本人は米国市民ではなく、政治問題に関わることもできなかったが、同化した移民として、米国、そして米国社会全体に対する忠誠心と貢献を示すことに非常に熱心だった。このような忠誠心の表明は西海岸でも一般的だった。シカゴのある新聞は、サンフランシスコの日本人からの次のようなメッセージを驚きをもって報じた。 「『我々の現在の義務は、全力を尽くし、そして、いつの時代も我が国民が持ち続けてきた真の忠誠心をもって、米国を支援することである』と、本日ここにある日本の日刊紙ニ…
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