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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第21回 力量を発揮するも退社へ

1946年米軍に撮影された、中国新聞社内での加藤新一と女性スタッフ(YouTube : Hiroshima aftermath 1946 USAF Film より)

広島に原爆が投下されてからほぼ8ヵ月後の1946年4月、米軍が撮影した広島市内の映像のなかに加藤新一が登場することに前回触れたが、撮影について当時の中国新聞が報じていた。

同年4月16日付の紙面で「復興の象徴」、「本社が天然色映画で全米にお目見得」という見出しで、加藤と思われる人物がデスクを前に座っている姿が見られる写真がついている。説明には「写真は本社編輯局内の一場面」とある。

記事をそのまま引用すると——

「戦災地の日本を映画化すためマツカーサー司令部では陸軍映画班を組織臨時列車を動員、長崎市をはじめ九州各地を天然色フイルムに収めたが、廣島市では過去一ケ月焼跡の撮影に消防梯子まで動員し、さる日曜日には宮島の櫻を、昨今は呉市、四國方面にまで足をのばし、数日中には岡山市へ移動する、廣島市では市役所、病院など一万五千尺をものし、災害地の中でもいの一番に復興した本社を全國新聞社中の代表的のものとして選び、取材から新聞が印刷されるまでの過程を具に撮影、近く全米の映画ファンにまみえる」。

また、これより先の3月29日付紙面では、「アメリカに行く廣島遺骨安置所」という見出しの写真付きの記事は、「廣島市聴遺骨安置所で原爆による戦災死者の遺骨引取りの場面を映画におさめている」と書いている。


労働組合の委員長を兼務

この当時、加藤は編集局次長だった。編集局のナンバー2である。その一方で、アメリカ軍の撮影が行われる2ヵ月ほど前に開かれた中国新聞社従業員組合の結成大会で、加藤は初代の組合委員長に選出された。その後、すぐに、個人加盟の産業別単一労組として先陣を切った日本新聞通信労働組合に加盟した。

戦後、急速に広まる日本の民主化の波のなかで、日本の新聞社では従業員が組合を結成する動きが加速していった。中国新聞もその例にもれず組合が結成されるのだが、委員長に編集局次長という社の幹部、あるいはそれに順ずる地位の者がつくというのは、どういうことか。

今日では考えにくいことだが、当時、中国新聞社ほか各社でもこうした兼務はありえたようで、また、同社の労組が結成される当時の労組と会社との関係、さらに義に感じて行動するという加藤本人の性格も関係しているようだ。

中国新聞の特別編集委員で、広島からの移民問題や原爆に詳しい西本雅実氏によれば、当時の組合は、会社に敵対的ではなく、かといって御用組合的でもなかった。一方で、オーナー企業であることに対する批判的な姿勢もあった。

「そういう組合だから、アメリカ帰りで民主主義を知っていて、占領軍とのやりとりも経験してきた加藤が推されたのではないか」と、西本氏はいう。


年をとっても革命児

また、加藤が編集局次長時代に論説委員として健筆をふるった村上哲夫氏は、「ながれ」(1954年刊)という自著のなかで、「血の気が多い」という見出しで、加藤新一の人物像を半生をなぞりながらつづっている。戦後、組合委員長になるあたりについては次のように言い表わしている。

「終戦後には一時、編集局次長となり、従業員組合が結成されて、初代の組合長に祭りあげられた。この前後にはアメリカ通だから、当時は編集局長にもと嘱望されたが、自分本位の地位を得るより、社員の期待に応えて、組合長になることを肯じたものである」。

ここから察するところ、社内の出世・地位よりも一般社員のために推されて組合委員長を引き受けたとみられる。村上氏も当時はオーナー経営に批判的であったというから、加藤の行動をより評価しているのかもしれない。

しかし、加藤のこうした経営陣に対して行動は以前にもみられた。加藤が戦前、ロサンゼルスの「羅府日米」の記者をしていたとき、サンフランシスコにある兄弟紙の「日米」で社長と従業員が対立したとき、加藤は両者の間に入り調停を買って出たが、会社側の対応を誠意なしとして、結局自ら同社を退いた。

こうした加藤の性格について、さらに組合委員長としての活躍について、村上氏はこう評価している。

「昔から血の気の多い性質で、年をとっても革命児の気分が燃えつづけ、お座成りの御用組合化どころか、とんでもないハツプン斗争のヤリ口が練れており、経営者側で目を白黒する場面が一再ならずあった。新聞通信関係で中国新聞社の労働協約が全国二番目に締結された。これから推しても、凄みのある腕利きだ」。

やはり、ここでも加藤の言動の力が発揮されている。この点もアメリカ仕込みといっていいのかもしれない。

こうして組合委員長として手腕を発揮した加藤だが、中国新聞の組合は、全国的な流れでもあった共産党の力によって変化していき、加藤の立場も微妙になった。一方、高まる労働運動は政治闘争から経済闘争へと転換していくなかで、1948年8月、中国新聞支部は、全日本新聞労働組合に加入し、12月に越年資金を要求する無期限ストをおこなった。これと前後して、加藤は文化局の局次長に異動となった。

このころから、加藤の組合内あるいは社内の立場、位置は揺れ動いていたようだ。これ以後加藤が中国新聞社を去るまでを、村上氏は次のように説明している。

「かくするうち中井正一氏(※注:社会運動家で美学者)が國會図書館の副館長となっていったので、その後任の廣島県労働文化協会会長に担がれたこともあった。しかし、労働運動の急先鋒が、共産党戦術化して行ったのと、各社とも部長級以上は労組員の資格がなくなって、そこに明確な一線を布くようになった。加藤も尻こそばゆい境遇に置かれた。それで昭和二四年四月、楠瀬知事から請われ、初代の廣島県弘報委員會委員長になり、……」

これだけだとあいまいだが、「尻こそばゆい」という言葉からして、なんとなく組合にも、あるいは会社にも、いずらくなったと思われる。こうして加藤は中国新聞を去る。しかし、加藤の力量は評価されていた。初代の公選廣島県知事である楠瀬常猪氏に請われて、加藤は、初代の廣島県弘報委員會委員長に就任する。

(敬称一部略)

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© 2021 Ryusuke Kawai

Chougoku Shinbun Jouralist labor union Shinichi Kato

このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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