1960年、全米を自動車で駆けめぐり日本人移民一世の足跡を訪ねた男がいる。翌年末、その記録を『米國日系人百年史〜発展人士録』(新日米新聞社)にまとめた加藤新一(当時61歳)である。広島出身の彼はカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進した。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。
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人の人生を追うむずかしさ
ノンフィクションを書くために、ひとりの人間の一生をたどろうとしたことは、何度もあるが、明治以降に生きた人でも、普通の人の人生を明らかにするのは簡単なことではない。名もない普通の人の人生は、本人や家族が亡くなってしまい代が変わると、意外にわからない。
田舎の旧家のように代々同じところに住み続け、家族の歴史が受け継がれているような家の出の人は別にして、たいていの人は住む場所も仕事もかわることが多く、日本の住宅事情では、祖父母はもちろん親の歴史をものがたるような遺品もたいてい残されてはいない。また、子供や孫も祖父や親からその人生を語られることはあまりない。子孫が他人から先代、先々代の人柄や人生を聞かされて、なるほどと思うこともよくあることだ。
自分自身のことを振り返っても、父親や母親が若いころどんな人間でどんなふうに生活をしていたかはよくわからない。周りの友人、知人をみても祖父母や親からその人生をほとんど聞かされてはいない。とくに戦争を挟んでいると、辛い体験もありあえて話したくないことも多かったのではないかと想像する。聞く方も、若いうちは親の昔話などには興味はなく、ようやく歴史のもつ意味と意義を感じはじめたころには、親はこの世にいないか記憶も薄れてしまっていることはよくあることだ。
とはいっても一般的にある人の人生を知るには、その人の親族が一番よくわかっているだろうことは言うまでもないので、まずは親族から話を聞く。つづいて、友人や知人が健在である可能性があれば彼らを探す。そのほかの方法としては、その人の暮らした土地、その人が働いていた会社や従事していた仕事にかかわる記録などを調べ、その人を取り巻いていた状況を明らかにする。外堀を埋めていく作業である。
親族の協力があれば戸籍をたどったり、菩提寺に問い合わせて家系を調べたり、このほか旅券の下付といった公的、私的記録から人生の一片をたどることもある。こうして徐々にその人の人生を具体的に浮かび上がらせていくことになる。
加藤新一の場合、有名というわけではないが、決して無名というわけでない。なによりロサンゼルスにあった邦人紙「新日米新聞社」が1961年に出版した『米國日系人百年史〜発展人士録』という大著をまとめている。(移民1世の実態を把握する記録として非常に重要なものだと思えるが、なぜかあまり研究者や専門家の間では取り上げられることがない。)
また、広島では戦後中国新聞の編集局次長などを務め、新聞社を辞めてからは初代の広島県広報委員会委員長をつとめるかたわら日本国際連合協会広島県本部の事務局長となる。世界連邦設立の運動にもかかわり、平和運動に積極的に打ち込む。一方で在米の広島県人とのパイプ役も務めた。
日系のアメリカ移民一世に敬意を表し、彼らのことを精力的にまとめた一方、原爆で弟、妹を失いながら「地球市民」の意義を唱え平和運動に邁進した業績がある。平和運動については自分自身で書き残したものもあり、新聞記事でも取り上げられた。その点、普通の人に比べれば彼を知る手掛かりは多く残されている。しかし、それでも全体像を明らかにしようとすると、そう簡単にはいかなかった。いまも謎の部分は残されている。
ノンフィクションに関わってきたものとしては、不明の部分、とくに誰も手をつけていないために不明な部分があるとより追究したくなるのが人情である。好奇心というか職業気質のようなものかもしれない。
日米をまたにかけた加藤新一という人はどういう人で、どんな人生を送り、なにを訴え残そうとしたのか。いまだ取材進行中の部分や、コロナ禍のためとん挫してしまった部分もあるが、まずはこれまでの取材で明らかになったことを、取材の過程を含めてロードムービー風に「加藤新一探し」という“旅”に見立て、次回から報告していきたい。
(敬称略)
© 2020 Ryusuke Kawai