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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第20回 アメリカ撮影の映像の中に

原爆投下からひと月ほどして加藤新一は、広島を訪れた赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の通訳兼案内を担った。そして11月1日付で政治部長に就任、翌46年2月には、社長交代にともなう中国新聞社の社内体制の刷新によって、編集局次長になった。

このころの加藤はどのような活動をしていたのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんに尋ねてみると、当時の姿はインターネット上の映像でみることができるという。

それは、Youtube にあげられた17分余のカラー映像で、音声はなかった。映像のタイトルには、「Hiroshima aftermath 1946 USAF Film」とある。撮影されたのは、1946年4月のようだ。

破壊された建物の前に神父のような法衣の白人と日本人の子ども数人が並んで登場する。続いて瓦礫のなかで農作業をする人の姿、そして木造の新しい仮設住宅とそこで暮らす日本人や壊れた墓石の数々。

タイトル通り、原爆投下後の広島市内の光景だとわかった。映像の続きは、両手を合わせ拝む和服の女性。その前にあるのは山のように積み上げられた小さな木の箱のようで、それぞれに名前などが書かれている。男性がその一つをとって女性に手渡す。遺骨が入った箱のようだ。

瓦礫のなかに何かを探す少年たち、背後には破壊された街を走る市電の屋根が見える。墓地の仏像に花を添える女性、川で何かを浚っている二人の少女、電柱にのぼって作業をする人……。


編集作業をする背広姿の加藤 

こうした光景のあとで、場面は変わりタバコをくわえ、帽子をかぶった男性が、鉛筆を握りしめ原稿のようなものを書いている。デスクの上には「キネマ旬報」の表紙が見える。

このあと黒板を背にして、眼鏡をかけたネクタイに背広姿の男性が、デスクで紙片を手にしている。目の前の花瓶から花がすっと伸びている。男性は、写真と記事を照合しているようで、インクをつけたペンで紙片に書き込み、終ると女性に何か言って手渡している。この男性が加藤新一だった。

1946年米軍に撮影された、中国新聞社内で作業をする加藤新一。(Youtube : Hiroshima aftermath 1946 USAF Film より)

どうやら、新聞社でのデスク作業のようだ。背広には社章だろうかバッジがつき、短く髪は刈り込んで、みなりはさっぱりとしスマートに見える。

加藤が登場するのはここまでだが、そのあとも新聞社の編集部の様子だろう、デスクで何人かが作業をしている。筆に墨をつけ紙に四角く線を入れているのは、大まかな紙面の割り付けのようだ。次は、鉛の活字を拾っているシーンだ。いまはもう見られなくなった光景だが、かつては新聞の文字は、一つひとつ鉛の文字を組み合わせて作ったものを原型にしていた。

映像は、「文選」と呼ばれる作業で、記事に必要な活字を一つひとつ探して“拾っていく”ところだった。ここから先も新聞ができるまでの光景をとらえている。記事ごとに集めた活字を文章どおりに組んで一つの記事の塊にする。さらに、これらの記事を割り付けに合わせて実際の新聞紙面と同じ大きさの鉛の原版をつくる。

この先の行程である、紙型をとり、この紙型をもとに鉛板をつくり、これをもとに印刷機にかけるところは省略され、映像は印刷機が回り次々と新聞が刷り上がっていき、できあがりをチェックする人をとらえている。この間に、なぜか 「Newsweek」 の置かれたデスクについて、仕事をしてる人の姿が見られる。海外のメディアも日ごろチェックしていることをおさめようとしているのか。

こうしてみると、映像の目的は、中国新聞社での新聞ができるまでの工程をとらえようとしていたことがわかる。しかし、この映像には、どこか不自然なところがある。例えば、加藤の作業である。加藤は当時、編集局次長の要職にある。中国新聞社は原爆で多くの社員を失ってはいるが、映像には、ほかの多くの社員が作業をしているシーンがある。従って実際は、編集局次長が写真と記事の付け合わせのようなことはしないだろう。

そう思ってみると、デスクの上の花もこれ見よがしな感じがしないでもない。フィルムの最初に出てくる法衣の白人と子どもたちの姿も整然としすぎて、芝居がかっているようだ。なにがしかの演出が働いていたのではないかと思わざるを得ないが、その疑問には、後に加藤本人が答えていた。


晩年、本人がテレビで語る

この映像の撮影から35年後の1981年7月7日、NHK広島放送局による午後6時40分からの番組「ひろしま6・40」で、この新聞製作の工程を映したフィルムのことが紹介され、生前の加藤がNHKに招かれて当時のことを語っていた。

当日の中国新聞でも「本社新聞づくりシーン 『10フィート運動』入手のフィルム NHK 関係者交えきょう放送」という見出しで、この番組についてとりあげていた。それによると、米軍が撮影した原爆の記録フィルムを入手し、記録映画づくりをめざす「10フィート運動」という市民運動が購入したフィルムのなかに、中国新聞社の当時の新聞づくりの過程が撮影されていたという。

番組では、フィルム映像を流しながら加藤に当時のことを語ってもらっていたので、吉田さんが教えてくれたYoutubeの映像と同じ長さのものかどうかはわからなかったが、撮影の場所は、当時広島市中区胡町にあった中国新聞の旧本社で、新聞製作の工程の映像は、同じものだった。

番組のなかに登場する帽子を被った男性について加藤は、「これは佐伯敏夫君だね、経済部長をした」と言い、編集作業をする自分の映像について尋ねられると「これは私でしょうね、あまり元気そうだから」と、笑いながら穏やかに答えていた。

作業そのものについて、加藤は「私は当時報道部で新聞記者の頭(かしら)のような仕事をしていたから、こういうふうに原稿を集めて整理するようなことはやってなかった」と言い、「では、頼まれてやったのでしょうか」と問われると、「占領軍が来て、新聞社のプロセスを撮るということで、(頼まれて)やったんでしょうね」と、認めていた。

また、当時の新聞づくりの苦労については、紙がなかったからペラペラだったと話した。

最後に、「原爆を新聞記者としてどのように体験なさったのか」と問われると、加藤は原爆で亡くなった弟、妹のことにふれ、妹からは死ぬ前に仇を討ってくれと言われたことを明かし、「僕は、仇は戦争だと思った。だから再び戦争はあってはいけない。戦争の生き証人として命の限りこのことを伝えなきゃいけない、そう思ってやって来た」と、力強く語っていた。亡くなるおよそ7ヵ月前のことである。

(敬称略)

第21回 >>

 

© 2021 Shinichi Kato

A-bomb hibakusha hiroshima Japan post-war

このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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