ペルーでは日本人移住120周年を迎えた(2019年現在)。これを機に、私が一人の人間、いや一人の女性としてとても尊敬している曾祖母の移住経験を自分なりに振り返ってみたい。曾祖母は他の多くの移住者と同じような移住の経緯を持っているが、彼女の話はこれまでほとんど伝えられていない。今年はカジャオ港に桜丸が到着して120年が経つという節目の年なので、曾祖母についてお話ししたいと思う。
曾祖母はサクライ・ヨシノという名前で新潟県の小千谷近くの山岳地帯にある小さな村の出身であった。明治生まれの曾祖母は、伝統的な風習やしきたりが近代的なものへと大きく変わる時代に育ち、当時としてはかなり進歩的な女性だったようだ。男性のスポーツといわれていたスキーをたしなみ、高等教育を現在の新潟大学の付属校である当時の長岡高等女学校に進学し、教員育成科で勉強をした。
そうした女性がなぜ海外に移住したのだろうか。海外移住者の多くはより豊かな生活を求めて外国に移住したが、曾祖母の実家は小千谷で温泉宿を経営していたこともあって当時は比較的豊かな暮らしをしていた。では何故ペルーへいったのだろうか。それは花嫁の呼び寄せがあったからだという。新潟出身のペルー移住者ショウヘイ・ホシという人が結婚相手を探していた。サクライ家はホシ家になんらかの恩があったので、娘をペルーのショウヘイと嫁がせることに決めたのである。
それまで会ったこともない人、しかも海を越えて遠く、言葉も習慣も異なる場所へ嫁ぐことへの抵抗や恐怖心みたいなものはあったと想像できる。あの時代は、女性であるというだけで、家族の名誉を守り親が受けた恩に報いるため、家族や友達、描いていた夢をあきらめて、一度も会ったことがない男性と結婚するという家族の決定に従わなければならなかった。それまで高等教育を受けさせてもらったにもかかわらず、当時の社会のしがらみを断つことはできなかったのだ。そして1912年、曾祖母は21歳の年齢でリマに到着した。今の私とほぼ同じ年である。多くのことを犠牲にし、自分の自尊心もアイデンティティーも抑え、ペルーではヨシノという名前ではなくレオノールと名付けられた。
女性はどのような状況でも、そして男尊女卑的な社会であっても、時代を切り抜ける力をこれまで発揮してきた。曾祖母も例外ではない。リマで、日本人移民やその子供たちのために「星学園」という日本語学校を開校し、自ら教壇に立った。祖国から離れた子弟への日本語教育のために開かれた初期の学校であった。移民の中にはあまりにも貧しく学費を払えない家庭もあったが、そうした家庭の子には無償で教えていたという。この学校は今もリマ中央市場があるメサレドンダ地区の近くにある。
曾祖母は嫁いで10人の子を設けたが、夫が亡くなった後も未亡人として学校の運営に携わった。その前からすでに事実上校長の役割を果たしてはいたが、この時正式にその職に就いた。子育てをしながらだったのでとても大変だったに違いない。男性社会の中、それもまだ社会の仕組みがわからない土地でこうした責務を果たしたのは、ほんとうに驚くべきことである。その結果、戦前の1939年、日本政府からペルー日本人社会での功績が認められ表彰された。
しかし、第二次大戦で世界情勢が緊迫し、学園は閉鎖され、曾祖母は影響力のある人物としてアメリカ兵捕虜交換制度の交換対象者としてペルーから強制送還された。テキサスで収容され、日本では空襲を体験した。その後、世界は大きく変わりそれまでとは違う世の中になった。曾祖母は自ら教育に注いだ熱意と成果を噛み締めながら、ゆっくり余生をおくり、1960年代に他界した。
曾祖母の人生を知ることで、「感謝」という言葉が私の心すべてを包み込んでくれる気がする。移住者は誰もが様々な苦難に遭遇してきたが、生き延びる力、勤勉さや高い志をもって前に進んできた。そのような姿勢が見れるからこそ、多くの日系人が私と同じように感謝の気持ちを感じるのではないかと思う。我々の今がここに存在するのは、トランクひとつで日本からこの遠い国にやってきた移住者の口にできないほど無数の苦労の結果であると感じる。
私は、これまでは先祖との繋がりをあまり感じたことはなかった。鏡を見ても東洋系の顔さえしておらず、スペイン語しか話せず、日本の名字も母方のでしかない(対面的に日本の名字を使用することはない、という意味)。しかし、曾祖母の過去は、今の私にはとてつもない意味を持つようになった。自分の存在そのものを考えるきっかけを与えてくれ、自分のルーツ、女性として、または人間としてどのような生き方をすべきかということまで影響を与えている。
ペルーに日本人移住者がやってきて120年になる(その半数が新潟出身だった)。過去を見つめ直すことで、彼らがどのように今の我々に影響を与えているのか、考えるいい機会でもあり、先祖に感謝することが何よりも重要なことであろう。それが結局我々のアイデンティティーの一部でもある。「日系人」とは何かを理解することはやはりかなり難しいかもしれないが、コミュニティーとして団結しひとつの「気持ち」を共有していることは確かだと思う。先人は、こうした強い気持ちを持っていたからこそ、多くの試練を乗り越えることができたのである。
私の曾祖母は、1999年新潟のある新聞で取りあげられていたペルー日本人移住者100周年の記事の中で、「海を渡った女先生」と呼ばれていた。曾祖母が草場の陰から我々を見守っているのなら、やはり我々のことを誇りに思って欲しい。我々は、生前のすばらしい手本と強い忍耐を受け継いでいかなくてはならない。
どうもありがとうございます!

© 2019 Kyomi Vargas Hoshi
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