私は、父の強さと勇気を永遠に称えるでしょう。第二次世界大戦中、私の父は若くしてアメリカの強制収容所に収容されるという苦渋を強いられたものの、人生を情熱的に忍耐強く生きました。
1921年6月6日、父はカリフォルニア州サンタアニタでセロリ農場の経営に成功した移民の両親の元に生まれました。5歳の時、病気の祖父の看病をするために両親と共に日本へ帰国、その後日本で子供時代を過ごしました。それから長い年月を経て、私の祖父は、父がどんなに賢く勉強熱心で、生まれながらのリーダーであったか私に教えてくれました。1939年、名門の(愛知)県立八幡浜高校を優秀な成績で卒業した父は、ロサンゼルスの住友銀行でインターンシップを受けることになりました。南カリフォルニアに渡った父は、米国生まれで日本育ちの他の帰米たちと出会いました。父の前には明るい未来が広がっていました。
1941年12月の真珠湾攻撃を境に、日本人を先祖に持つ人々の生活は一変しました。その3か月後、フランクリン・ルーズベルト大統領は、大統領令9066号に署名し、西海岸に住んでいた日系人12万人強制収容され、うちの3分の2は米国人でした。父が強制収容されたのは、デスバレーのすぐ西にあるマンザナー強制収容所でした。
砂漠の真ん中の有刺鉄線の内側で、銀行員としてのキャリアを追求するという父の夢は永遠に打ち砕かれました。アメリカ国内に家族はなく、当時20歳だった父はひどく孤独で、裏切られた気持ちでいっぱいだったはずです。
1943年、“出所許可申請書”が収容所の全ての成人に配られました。それを作成したのは戦時転住局で、そこにはいわゆる忠誠心調査と呼ばれる2つの質問が含まれていました。特に質問27と28は、収容所で暮らす日系人に大きな対立と動揺をもたらしました。
質問27: あなたは米軍兵士として、命令を受ければ任地がどこであれ戦闘任務にあたる意思がありますか?
質問28: あなたはアメリカ合衆国に無条件の忠誠を誓い、国内外におけるあらゆる攻撃に対しても合衆国を忠実に守ることを誓いますか?また、日本国天皇やその他の外国政府・権力・組織に対し、どのような形であれ忠誠心を抱いたり服従しないを誓いますか?
大きな混乱と反発が起こりました。
質問27に“イエス”と回答することで、日系二世の男性は有刺鉄線の中に拘束されながら、同時に米軍に徴兵されるということを意味したのでしょうか?
質問28に“イエス”と回答することで、移民一世は国籍を失い、米国生まれの子どもたちと離れ離れになることを意味したのでしょうか?
父と同様に大勢がこれに抗議し、この曖昧な質問に怒り、回答自体を拒否するか、両方の質問に“ノー”と答えました。“ノーノー・ボーイ”(後に“ツールレイクの不忠誠者”として知られる)というレッテルを貼られ排斥された彼らは、その後カリフォルニア州北部の荒廃した土地にある、ツールレイク隔離収容所に移送されました。
父は、当時の経験について『Detention Camp Vagabond(拘留所放浪者)』と題したエッセイに次のように綴っています。
忠誠心がないと見なされた人々は、ツールレイク収容所で隔離されることになった。私は日本への送還を要請したので、すでにブラックリスト入りしていた。私は忠誠心調査に回答することなくツールレイクに収容された。ツールレイクは1万人の収容を想定して建設されたが、1万8千人が押し込められていた。米国が行なったあらゆる人種差別の中で、私はこれが最悪のケースだと記憶している。
1945年8月、米国が広島と長崎に原爆を投下し、戦争は終結しました。その翌年、ツールレイク隔離収容所は閉鎖されましたが、父は他のツールレイク不忠誠者と共にテキサス州クリスタル・シティの強制収容所に移されました。到着した時のことを父はこう記しています:
一箇所に集められるや否や、胸に貼る番号を割り当てられた。それだけでなく衛兵所に連れていかれ、禁制品所持の検査を受けた。私と同じくらいの年齢の兵士に向かって、「同志であるアメリカ市民に対して銃剣を向けるとは一体どういうつもりだ?」と叫んだのを今でも覚えている。
1947年、父はニュージャージー州の冷凍食品会社、シーブルック・ファームズでの就労を命じられました。司法省はその年の後半に全ての日系人収容者の解放を命じ、父は、5年ぶりの自由を味わいました。
私は父に、なぜ単純に日本の家族の元に戻らなかったのかと尋ねたことを覚えています。収容所で過ごした数年間は恐ろしいものだったが、アメリカで自分の人生がどこに向かうのか見届けたかったと父は言いました。釈放後、父はすぐにカリフォルニア州パサデナに落ち着き、私の母と出会い、家庭を持ちました。大学の学位取得を目指し、銀行員としてのキャリアを追求するにはもう遅すぎると父は感じていました。戦後の1950年代、日系人への偏見が残っていたため、仕事を見つけることが難しかったからです。父はその後40年間、自営の庭師として懸命に働きました。父は、日系社会の主要メンバーとなり、 南加庭園業連盟、愛媛県人会、国誠流詩吟会(詩吟は、日本の古典詩を唄う形式の1つ)で指導的な役割を担いました。
父が収容所での日々について語ることはほとんどありませんでした。あまりにつらい経験だったからだと思います。しかし折に触れ、父と帰米二世の友人の会話を偶然耳にすることがありました。収容所での体験を思い出させるようなニュースを耳にすると、父は激怒して暴れ回ることもありました。アメリカが日系人に対してした仕打ちについて、父が国を許したかどうかはわかりませんが、決して忘れなかったことは確かです。
父は、2016年に94歳で亡くなりました。父は今でも私を励まし続けてくれています。
興味深いことに、第二次大戦後75年が経ちますが、スパイ行為や妨害工作で有罪判決を受けた日系人は、今に至るまでただの一人もいないのです。
* このエッセイは、「ニッケイ・ヒーロー」シリーズでニマ会のお気に入りに選ばれた作品です。
© 2019 Keiko Moriyama
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