ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/945/

大衆の力 (英語)

(英語) 人々がまず理解すべきことは、いわゆる指導者と呼ばれる人たちが、連邦議会で補償法を通過させた訳ではないということです。それを成し遂げたのは普通の人々、彼ら自身なのです。補償運動の主役になったのは自分だ、などと考えることは、誰にもできません。主役と呼ばれる人が仮にいたとしても、それ以前に、参加する人々がいなければ指導者は存在し得ません。ただそれだけのことです。個人の努力も大事ですが、何より肝心なのは、その背後に居る人々だということを私は明確にしたいのです。でも、指導者と呼ばれる人々が物事を操作できるかのような雰囲気があるのです。


公民権 リドレス運動

日付: 1997年9月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ラリー・ハシマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

バート・ナカノ氏は、1928年、ハワイ州ホノルルに生まれました。戦時中に強制収容されたハワイ在住の日系人はごくわずかでしたが、ナカノ氏一家は、ハワイで身柄を拘束され、合衆国本土の強制収容所に送られました。当時14歳だったナカノ氏は、アーカンソー州のジェロームに拘留され、その後カリフォルニア州のツールレイク収容所に移送されました。

結婚し、シカゴと日本で働いた後、ナカノ氏は南カリフォルニアに移り住みました。ナカノ氏は強制収容の事実に長い間憤りを感じ、また戦後多くの日系人が日系のルーツを恥じる風潮にも反発を感じていました。

1976年、ナカノ氏は、大学生だった息子の後押しで、彼自身も強い問題意識を感じていた問題に取り組むため、草の根活動団体、「Little Tokyo People’s Rights Organization(リトル・トーキョー人権協会)」に加わります。この団体は、ロサンゼルスの再開発事業計画に反対の立場を取っていました。なぜならその開発計画は、低所得者や中所得者層の日系人、そして家族経営の小企業の存在を脅かすものだったからです。

1978年、ナカノ氏は、第二次大戦中強制収容されていた日系人への賠償を求めるため、「補償を求めるロサンゼルス市民連合」の立ち上げに協力しました。そして1980年、ロサンゼルスの連合は、全米の各地域に根ざした団体と共に、「NCRR(補償を求める全国連合)」を組織しました。ナカノ氏は、9年間にわたってNCRRのスポークスマンを務め、その間NCRRは、日系議員や退役軍人、日系アメリカ人市民同盟などの団体や個人と協力し、正義を求めて共に活動しました。バート・ナカノ氏は、2003年に亡くなりました。(2008年4月15日)

ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案442 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

トム・ユキ

憲法に守られることを信じていた父(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)