ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/928/

駆り立てる思い (英語)

(英語) 1978年11月、ピュアラップで「追憶の日イベント(The Day of Remembrance)」が行われました。私は直接その運営に携わりませんでしたが、米国日系人市民協会(JACL)メンバーのお世話を頼まれていました。そのメンバーとは、クリフ・ウエダ氏、ジョン・タテイシ氏、それから名前は覚えていませんが、パシフィック・シチズン紙(JACLが発行する新聞)の当時の編集者でした。私は彼らのお世話をしながら、2000人以上の人々が次々と集まって来る素晴らしい光景を目にし、彼らの反応を間近で見ていました。その様子はとても感動的でした。

参加者全員がかつてレイニアーにあった、その頃シックズ・スタジアムと呼ばれていた場所に集まりました。私たちは、それぞれ車に乗って行きました。私が乗ったのはバスだったか、よく覚えていませんけど。ヘッドライトを灯したおびただしい数の車が何マイルもの長い列を作って、高速道路を走る光景を見たのです。こんなに大勢の人たちがピュアラップに行くために集まってきたのかと思い、私は感動に包まれていました。

そしてそれは、かつて強制収容された人々が初めて集結した…いえ、そうではないですね。この追悼イベントは、強制収容された当時の気持ちを我々に思い起こさせる機会となったんです。多くの人は、その時までそういった感情を押し殺したり心の隅に追いやったりして、当時のことを語ろうとしてこなかったのですから。


日付: 1997年9月26日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: ベッキー・フクダ、トレイシー・ライ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

チェリー・キノシタ氏は、1923年ワシントン州シアトルに生まれました。十代の頃、キノシタ氏はワシントン州ピュアラップ集合センターに拘留され、その後アイダホ州ミニドカ強制収容所に収容されました。強制収容所での2年半、彼女は収容所新聞『ミニドカ・イリゲーター』紙の記者を務めました。

1970年代、キノシタ氏は米国日系人市民協会(Japanese American Citizens League)シアトル支部を拠点に、積極的に補償運動にかかわるようになります。彼女は多くの場で貢献しましたが、そのひとつに、ワシントン州選出議員に対し、第二次大戦中の日系人への不当措置について啓蒙し続けた 草の根 活動があります。政治家を相手にする時、彼女の最大の武器となったのは、粘り強さと辛抱強さでした。1979年、最初の日系人補償法案が、ワシントン州選出議員によって提出されたのは、特記すべきことでしょう。

キノシタ氏は、補償運動のための支援機関として、主要な日系団体のうち16団体の提携を取りまとめました。補償運動の最中60歳になったキノシタ氏は、ワシントン大学で社会学を専攻し、優等の成績で文学士号を取得しました。 (2008年4月15日)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ヘンリー・ミヤタケ

共通の目的のために (英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

フランク・エミ

米国日系人市民協会からの謝罪 (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)