ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/919/

共通の目的のために (英語)

(英語) ピュアラップでの追憶集会は、日系コミュニティを1つにまとめたと思います。日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーや二世の退役軍人、またはどこかの教会信者らの参加者と云うだけでなく、日系人が皆そこに集っていました。参加者全員が、一体となったのです。

今になってみると、この集会こそが、この補償請求運動の頂点だったと思っています。そこでは私たちは、強制収容の合憲性や倫理性を問うことだけではなく、共通の目的のために人々が一堂に会することができたのです。政府がこれまで我々に対し行った多くのことが原因で、日系人はコミュニティから引き離され、一世は二世から遠ざけられました。二世が、人格的に問題ありとされた一世たちを名指しで批判したことも過去にはあったんです。その結果コミュニティは崩壊し、家族はバラバラになりました。そして、親たちも自分の身に起きたことを子供たちには語りませんでした。そんな中、ピュアラップの追憶集会は、人々を集めて、彼らがその問題(強制収容が引き起こした)を直視し、皆で話し合い、議論するようもって行くのには成功したと思うんです。と云うことで、この補償にかかわる一連の運動の中で、この追憶集会は私にとってたいへん興味深い体験となったわけです。


アメリカ ワシントン 一時収容センター ピュアラップ仮収容所 第二次世界大戦下の収容所 リドレス運動

日付: 1999年10月28日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・ミヤタケ氏は、1929年ワシントン州シアトルに生まれました。第二次世界大戦中まだ10代であったミヤタケ氏は、ピュアラップ集合センターに拘留され、その後アイダホ州ミニドカに強制収容されました。強制収容所でミヤタケ氏は、米国政府によるマイノリティの扱いを批判する論文を書き、その主張の正当性を訴えましたが、教師は論文の受け取りを拒否し、合格点を与えなかった為、ミヤタケ氏は卒業することが出来ませんでした。

当初、彼の考えは急進的なものでしたが、ミヤタケ氏は、70年代前半から始まった補償請求運動の最初の発起人の1人になりました。他の数名の日系人と共に、米国政府に対し、強制収容された日系アメリカ人への補償を求めるため、日系アメリカ人市民同盟シアトル支部にその計画案を準備したのもミヤタケ氏でした。

しかし1978年11月25日にピュアラップ集合センター跡地で開催された最初の「追憶の日」のイベントまでは、ミヤタケ氏の努力は、日系コミュニティから反発を受けていました。ミヤタケ氏が参画し、開催にこげつけたこのイベントは、過去の不正を正すために組織されたその後の補償請求運動において、日系社会を大いに活気づけるものでした。

ミヤタケ氏は、2014年9月16日、85歳で亡くなりました。(2015年4月)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

チェリー・キノシタ

駆り立てる思い (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ウィリアム・ホウリ

信頼を得るためにしてきたこと(英語)

政治活動家(1927-2010)