ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/341/

アメリカ料理を身につけたきっかけ(英語)

(英語)近所にマクドナルドさんという方の家があり、そちらの奥様ミセス・マクドナルドが私と姉に料理を教えてくれました。母はアメリカ料理を作りませんでしたからね。ですから学校に行くとちょっと恥ずかしかった思い出があります。学校のお友達から今朝なにを食べたの?ときかれると、他の子たちはトーストや卵などと答えるのに、私達はごはんとお味噌汁でしょ?(笑)お友達にちょっと変わった朝食だと思われてしまいそうで「朝食はごはんとお味噌汁だったわ」というのがなんとなく恥ずかしくてね。でもそれが典型的な日本の朝食だったのです。

私達は徐々にアメリカ料理の作り方を覚えていきました。ミセス・マクドナルドには感謝しています。ケーキの作り方も教えてくれました。ミントの葉を摘み、ケーキ型の底に入れるとケーキにミントの香りがつくのです。それからポテトサラダの作り方も教えてくれました。(ミセス・マクドナルド以外の)近所の人たちも私達に色々なことを教えてくれました。こうしてアメリカ料理の作り方を習いましたが、母は私達が料理をするようになって大量の砂糖を食べるようになったから、私達の歯が悪くなり始めたと思っていたようです。姉と私は(アメリカ料理を作り始めるまで日本食だったので)良い歯をしているけど、小さい子達(妹や弟)は甘いものの食べすぎで歯が悪い、と断言していました。


コミュニティ 食品

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士