ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1469/

幼少期(英語)

(英語)過酷な幼少期でした。幼い頃に父を亡くし、母は6人の子供を抱え、そのうち生き延びたのは4人でした。1922年に父が亡くなり、その後6、7年はなんとかして農地を耕して生活してましたが、男手があっても農業は楽ではありません。父を失った母はとても苦労しました。私たち一家は税金を払うこともできなくなり、40エーカーのアプリコット畑もブドウ園も手放すことになりました。現金収入を得るためにニンジンやイチゴなどを育てようとしたこともありました。

私たちを助けに来てくれたのは、やはりアビコ夫妻でした。私たち一家が暮らすための場所をサンフランシスコに見つけてきてくれました。ホシヤマ家は農場での過酷な生活に7年間耐え、1929年12月にヤマトコロニーを後にしました。そして都市生活者として、サンフランシスコで新たな生活を始めました。極度の貧困状態にあった自作農の生活からサンフランシスコでの生活への移行は天国に行ったようなものでした。舗装された道路や電気、室内の水洗トイレ、5セント払えばケーブルカーに乗ってサンフランシスコ中どこにでも行くことができました。当時の私には天国のようでした。


我孫子家 カリフォルニア州 家族 戦前 サンフランシスコ アメリカ合衆国 大和コロニー(カリフォルニア州)

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

ウィリー・イトウ

戦後の父の理容院(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。