ディスカバー・ニッケイ

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人種差別に遭うアジア系アメリカ人弁護士(英語)

(英語)当時は弁護士についても同じことが言えました。私の知っている弁護士は日系と中国系だけでした。日系弁護士はみなリトル東京に、中国系弁護士はチャイナタウンに事務所を構えていました。彼らの依頼人は、もっぱら同じ民族集団だけでした。彼らの多くは小さい法律相談を行っており、私は彼らを知っていました。あとで数名と知り合い、その中の何人かは移民業務で大変忙しそうでした。しかし、依然として彼らの業務は地域の民族コミュニティに限定されていました。

ほんの少数ではありますが、公務員として働く日系アメリカ人の弁護士もいました。でも、やはり多くありません。通常は州や郡政府、市庁で働いていました。しかし本当に少ない数です。当時は、少なくともビジネスの世界では、明らかな人種差別があったのです。


差別 民族居住地 対人関係 日本人 弁護士 (lawyers)

日付: 2014年7月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 加藤 さくら

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

カリフォルニア州サンタマリアで生まれる。アツシ・ウォーレス・タシマ判事は、日系アメリカ人としては始めて、アジア系アメリカ人としては3人目の連邦控訴裁判官となった。タシマ氏は移民の一世のもとに生まれ、幼少期の3年間をアリゾナ州ポストンにある強制収容所で過ごす。タシマ氏が1958年にハーバード大学法科大学院に入学したとき、ハーバードにいたアジア系アメリカ人は4名だけであった。その後も、タシマ氏は連邦判事として34年の長い経歴をリードし続けてきた。1980年、カーター大統領によってカリフォルニアの中心地区連邦地方裁判所判事に任命。合衆国連邦地方裁判所に15年務めた後、クリントン大統領がタシマ氏を、ウエストコーストの九つの州を管轄する第九巡回区連邦控訴裁判所に昇進させた。2004年、タシマ氏はシニアの地位となり、現在カリフォルニア州パサデナにある第9巡回パサデナ裁判所にて判事を務めている。(2014年8月)

Paulo Issamu Hirano
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パウロ・イサム・ヒラノ

ニッケイという言葉について

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

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Paulo Issamu Hirano
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パウロ・イサム・ヒラノ

日本人へ帰化することについて

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

家の中で日本語を話すことを強要した父

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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Masato Ninomiya
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二宮 正人

子供の日本語教育について

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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二宮 正人

日本人のアイデンティティを持ったブラジル人

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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