ディスカバー・ニッケイ

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少年にとっての収容所(英語)

(英語)私が高校生や大学生、または社会人であったなら、収容所での経験は大きく異なるものになっていたでしょう。しかし、中学生くらいの少年だった私にとって、その経験は悪いものではありませんでした。そのほとんどを私はプラスの経験とみなしていると思います。

私はそのときまで都市で育ちました。ロサンゼルス東部、現在ボイル・ハイツと呼ばれているところに住んでいました。その地域の外で時間を過ごしたことは、全くありませんでした。だから生まれて初めてのことだったのです。例えば、ポストンの3マイル先にはコロラド川があり、たいてい週末になると川に泳ぎに行きました。ロサンゼルスに住んでいたら、近くにそんな場所はありませんから、できないことです。

多くの時間を野外で過ごしました。釣りの仕方や、泳ぎ方を学びました。実は、よく家に帰るのが楽しみだったことも覚えています。8歳か9歳でしたが、私はコロラド川を泳いで渡ることができました。それで母に「母さん、今日またカリフォルニアに行ってきたよ」と言うと、母はちょっと笑顔を浮かべるだけで、何も言いませんでした。とにかく、これまでと違う経験でした。いつも外にいました。

私たちの区画では、例えば、鳩やうさぎなどの動物を飼育しました。たまにうさぎの宴会を開き、焼いたうさぎをたくさん食べました。そんな風に、ロスで生活していたらやらないようなことをやりました。ある意味で、異なる種類の楽しい経験だったのです。


アリゾナ州 ボイルハイツ カリフォルニア州 コロラド州 コロラド川(コロラド州~メキシコ) 強制収容所 イースト・ロサンゼルス ロサンゼルス ポストン強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2014年7月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 加藤 さくら

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

カリフォルニア州サンタマリアで生まれる。アツシ・ウォーレス・タシマ判事は、日系アメリカ人としては始めて、アジア系アメリカ人としては3人目の連邦控訴裁判官となった。タシマ氏は移民の一世のもとに生まれ、幼少期の3年間をアリゾナ州ポストンにある強制収容所で過ごす。タシマ氏が1958年にハーバード大学法科大学院に入学したとき、ハーバードにいたアジア系アメリカ人は4名だけであった。その後も、タシマ氏は連邦判事として34年の長い経歴をリードし続けてきた。1980年、カーター大統領によってカリフォルニアの中心地区連邦地方裁判所判事に任命。合衆国連邦地方裁判所に15年務めた後、クリントン大統領がタシマ氏を、ウエストコーストの九つの州を管轄する第九巡回区連邦控訴裁判所に昇進させた。2004年、タシマ氏はシニアの地位となり、現在カリフォルニア州パサデナにある第9巡回パサデナ裁判所にて判事を務めている。(2014年8月)

ジョージ・ヨシダ

スウィングを愛した二世の若者達(英語)

音楽家 (1922年)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

ベン・サコグチ

母親の財布

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家

レイコ・T・サカタ

戦後ロサンゼルスに戻る

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。