広島に原爆が投下されてからほぼ8ヵ月後の1946年4月、米軍が撮影した広島市内の映像のなかに加藤新一が登場することに前回触れたが、撮影について当時の中国新聞が報じていた。
同年4月16日付の紙面で「復興の象徴」、「本社が天然色映画で全米にお目見得」という見出しで、加藤と思われる人物がデスクを前に座っている姿が見られる写真がついている。説明には「写真は本社編輯局内の一場面」とある。
記事をそのまま引用すると——
「戦災地の日本を映画化すためマツカーサー司令部では陸軍映画班を組織臨時列車を動員、長崎市をはじめ九州各地を天然色フイルムに収めたが、廣島市では過去一ケ月焼跡の撮影に消防梯子まで動員し、さる日曜日には宮島の櫻を、昨今は呉市、四國方面にまで足をのばし、数日中には岡山市へ移動する、廣島市では市役所、病院など一万五千尺をものし、災害地の中でもいの一番に復興した本社を全國新聞社中の代表的のものとして選び、取材から新聞が印刷されるまでの過程を具に撮影、近く全米の映画ファンにまみえる」。
また、これより先の3月29日付紙面では、「アメリカに行く廣島遺骨安置所」という見出しの写真付きの記事は、「廣島市聴遺骨安置所で原爆による戦災死者の遺骨引取りの場面を映画におさめている」と書いている。
労働組合の委員長を兼務
この当時、加藤は編集局次長だ...