Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第21回 力量を発揮するも退社へ

広島に原爆が投下されてからほぼ8ヵ月後の1946年4月、米軍が撮影した広島市内の映像のなかに加藤新一が登場することに前回触れたが、撮影について当時の中国新聞が報じていた。 同年4月16日付の紙面で「復興の象徴」、「本社が天然色映画で全米にお目見得」という見出しで、加藤と思われる人物がデスクを前に座っている姿が見られる写真がついている。説明には「写真は本社編輯局内の一場面」とある。 記事をそのまま引用すると—— 「戦災地の日本を映画化すためマツカーサー司令部では陸軍映画班を組織臨時列車を動員、長崎市をはじめ九州各地を天然色フイルムに収めたが、廣島市では過去一ケ月焼跡の撮影に消防梯子まで動員し、さる日曜日には宮島の櫻を、昨今は呉市、四國方面にまで足をのばし、数日中には岡山市へ移動する、廣島市では市役所、病院など一万五千尺をものし、災害地の中でもいの一番に復興した本社を全國新聞社中の代表的のものとして選び、取材から新聞が印刷されるまでの過程を具に撮影、近く全米の映画ファンにまみえる」。 また、これより先の3月29日付紙面では、「アメリカに行く廣島遺骨安置所」という見出しの写真付きの記事は、「廣島市聴遺骨安置所で原爆による戦災死者の遺骨引取りの場面を映画におさめている」と書いている。 労働組合の委員長を兼務 この当時、加藤は編集局次長だ...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第20回 アメリカ撮影の映像の中に

原爆投下からひと月ほどして加藤新一は、広島を訪れた赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の通訳兼案内を担った。そして11月1日付で政治部長に就任、翌46年2月には、社長交代にともなう中国新聞社の社内体制の刷新によって、編集局次長になった。 このころの加藤はどのような活動をしていたのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんに尋ねてみると、当時の姿はインターネット上の映像でみることができるという。 それは、Youtube にあげられた17分余のカラー映像で、音声はなかった。映像のタイトルには、「Hiroshima aftermath 1946 USAF Film」とある。撮影されたのは、1946年4月のようだ。 破壊された建物の前に神父のような法衣の白人と日本人の子ども数人が並んで登場する。続いて瓦礫のなかで農作業をする人の姿、そして木造の新しい仮設住宅とそこで暮らす日本人や壊れた墓石の数々。 タイトル通り、原爆投下後の広島市内の光景だとわかった。映像の続きは、両手を合わせ拝む和服の女性。その前にあるのは山のように積み上げられた小さな木の箱のようで、それぞれに名前などが書かれている。男性がその一つをとって女性に手渡す。遺骨が入った箱のようだ。 瓦礫のなかに何かを探す少年たち、背後には破壊された街を走る市電の屋根が見える。墓地の仏像に花を添える女性、川で何かを浚っている二人の...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第19回 被爆直後の中国新聞と加藤

原爆による広島の街と人の惨状を目にしたこと、そして弟と妹を原爆で失ったことは、のちに加藤新一が平和運動に邁進する原点であった。 前回紹介した、被爆当日に広島市内を駆け回った加藤の手記のなかで、弟、妹の死についてはこう記されている。 弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って――」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。 死没者追悼平和祈念館に  二人の被爆については、これ以上は触れられていないが、どのような状況で亡くなったのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんが教えてくれた。わかる範囲の情報は、広島平和記念公園のなかにある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているという。 ここでは、原爆死没者を追悼し、原爆で多くの人が亡くなった事実を伝えるため、死没者の名前と遺影(写真)を登録している。 記念館の地下2階に、亡くなった人々の遺影と名前が記されている。また、ひとり一人について検索して呼び出すことができる。「加藤省三」「加藤文江」を探すと、若い二人の顔写真がでてきた。 丸刈りに丸眼鏡をかけた...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第18回 原爆の日を駆け回る

1945年8月6日、中国新聞の報道部長だった加藤新一は通勤途中、西広島駅近くにいて原爆の閃光を見て、すぐさま市内の中国新聞本社へ向かった。その時見たもの感じたことなどを記録、26年後の1971年に自ら発行人となった「平和競存の創造」のなかで「原爆地獄を往く 一老記者のピカドン体験記」として発表した。以下、その体験記を紹介しよう。 ピカドンの一瞬ピカっと青白い大せん光。つづいてドーンと大きくにぶい大轟音の一瞬。私は地べたに叩きつけられた——。 一九四五年八月六日午前八時十五分。私はあの世界人類が最初に体験した原子爆弾炸裂の瞬間、広島市の西玄関己斐(今の西広島)の宮島電車駅改札口から数歩の国道上に、朝の通勤ラッシュ、市内電車へ乗替えの長い行列の末尾で朝刊新聞に目を落としていた。 これは至近弾、あとの投弾を受けぬ間に——と勝手知った貨物駅入口から、すでに倒壊した倉庫の屋根を飛び越え、韋駄天のごとく山の手に向け走った。 敵機が油を撒いている——と叫ぶ声がする。まことポツポツ落ちている雨は黒くニチヤ、ニチヤしている。その朝は土用の最中で雲一つなかったのに大轟音とともに辺りが薄暗くなり、油に似た黒い雨。一人の兵隊が「油ではない。よごれた雨だ」という。麓の横穴に難をのがれ、東方の市内を見渡すと、全市から火の...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第17回 広島はアメリカ2世の郷里だから?

日米開戦から8ヵ月余の1942年8月20日、日米交換船で日本へ戻った加藤新一は、郷里の広島市で中国新聞の記者となった。いつからどのような経緯で就職したかはわからないが、アメリカでの邦字新聞の記者としての経験がものを言ったのだろう。 中国新聞1は、広島市に本社を置き広島県内のほか、山口県、岡山県、島根県など中国地方で販売されているブロック紙で発行部数は、約53万8000部(2021年3月)。その歴史は古く、明治25(1892)年に「中国」として創刊、明治41(1908)年に「中国新聞」と題号がかわった。 開戦前後の中国新聞 日米開戦の翌年(1942年)に中国新聞は創業50周年を迎えた。開戦後勢いを増していた日本だが、加藤が帰国する2ヵ月前の6月にはミッドウェー海戦で敗北し、守勢に転じていた。1944年にはサイパン島で日本軍は玉砕、東条内閣は総辞職した。日本本土への空襲もはじまり、11月には東京も初めて空襲に見舞われた。 1945年5月15日、中国新聞の東京支社が焼夷弾攻撃によって消失、つづいて大坂支局、岡山支局、宇部支局、下関支局、徳山支局、福山支局が戦火で失われた。このため広島市の中国新聞本社では迫りくる空襲への防衛対策が進められた。 しかし、社員の多くは応召していたため、地方の支局員を交代で動員、防火幕や防火水槽を設けるなどして防空体制を整えた。一方、新聞用の資材...

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