ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/12/14/north-american-times-17-pt2/

第17回(後編) 二世女子日本見学団

第17回(前編)を読む >>

《神戸見学 — 1939年11月7日》

「神戸の一日、太陽見学団」前田昭(1940年2月5日号1

『北米時事』1940年2月5日

「神戸市内名所見学、特別バスで神戸市内名所古跡見学をした。神戸は古跡の多いのに驚いた。夜は日本料理のご馳走を神戸でも一流と云われる延命亭にて戴いた。

夕食後に夜11時30分の神戸発の山水丸に乗り一路徳島へ向かった。出征兵士を送る時の様に太陽見学団万歳の声に送られた」

《四国見学 — 1939年11月8、9日頃》

「徳島と高松太陽見学団」前田昭(1940年2月8日号)

「神戸からの船は二等に乗ったが、男子の方が多いのに、其の中で一緒に寝ると云ふ事を非常に心配したらしい。寝られたのは二時間位。

徳島へ着いたのは翌朝5時頃。最初に徳島市役所を訪問して工藤市長に面会。又荒木知事を訪問。太陽ガールズ創始者岡田伴三の生れ故郷の牛島を訪問した。汽車に乗り高松へ向かった。高松駅では個人の出迎えとしては記録破りだった。翌日観音寺、屋島へ向かった」 

太陽ガールズ一行はこの後、四国から本州に渡り、最後に岡山を見学後解散し、皆両親の故郷へ向かった模様。

 


日本見学団員の岡田瑠璃子嬢から日本訪問の感想が掲載された。

「見学を終えて」(1939年12月29日号)

『北米時事』1939年12月29日

「北米時事とシアトルの皆様へ 

第5回見学団長の上田豊先生はアメリカで二世に日本語を教へていた御方なので、私たちには非常によい団長さんだった。上田団長さんをお願いできた見学団は本当に運がよかった。そしてあんなよい団長さんを御世話してくれた北米時事の有馬さん(有馬純義社長)にお礼申し上げたい。見学して感じたことを二つ、三つ。    

先ず第一に日本は私たちの思ったより立派な所だ。まだ見ぬ日本、親たちから聞かされていた日本、それは素晴しいものだった。船が横浜に着いて、船の上から見ると鶴見、川崎方面の工業地帯だ。日本は大したものだと思った。

戦争中の日本が落ち着き、一般に少しも戦時らしくないのに驚いた。アメリカで英字新聞や何かで『日本は困っている』と書いてあったが、本当に見てよい勉強をしたと思ふ。

何処へ行っても人が多いのには驚いた。シアトルなどでは見られない。電車などはシアトルの行列の日の折で、それが毎日だ。

帝国議事堂は想像にまさる立派なものだった。議員控室、大臣室、総理大臣室、貴族院議場などに行った。(中略)

東京の小学校の設備には驚いた。エブリルームにラジオがある。理科室に電気とガスの配線、医務室にエキス光線、歯科治療設備、庭にプールがあるなど、アメリカでは見られない立派なものだ。

不快に思ったこと一つ、二つ。ベッドから畳、フトンに急に変わったのは不便だった。食べ物で困ったのは刺身が多いことだった。

東京で兵隊さんの病院を見学した時は泣けた。24,5歳に思われるが、元気そうな若い男子が手足を失ったり、目が見えなくなっているのを見て気の毒でならなかった。私は朝夕にこれらの人達がこれから幸福になれるよう祈っている。(中略)

日本の人が頭を下げて神様を熱心に拝むのは不思議に感じた。(中略)

見学団の黒いスーツは非常によかった。関係者みんながこの黒いスーツをほめてくれた。

私は見学団で日本を見たのは、非常にラッキーだった。そしてお世話してくれた皆様や見学を許してくれた両親に心から感謝している。そして私たちのような二世は必ず一回は日本を訪問することをお勧めする。

私は女学校聴講の許可を受けるので、一月から現在父母の生まれた田舎から徳島市まで、毎日5里(約20km)を汽車で通学する2

この記事を読むと、岡田瑠璃子嬢は、日本語は充分会得していると感じるが、日本の実情、文化、風習はこの日本見学により認識を新たにしたようだ。

また太陽見学団が成功したのは、受け入れ側の日本で有馬純清氏始め、かつてアメリカにいた人達の絶大なる協力、支援によるものだということがよくわかる。

「新春を迎えて・岡崎美代子 太陽ガールズ倶楽部を代表して」(1940年1月1日号)

「太陽ガールズクラブの私達は 昨年秋のお姉様方を太陽見学団として日本に送ったので、ジュニアだった私達はシニアになった。

思へば昨年9月に皆様方から色々な御心配を頂き、当地を出発した太陽見学団のお姉様達はお蔭様で日本の立派な方々から色々親切にして頂き、有益な見学を続けつつ、どんな思ひを以って新年を迎へられただろう。

私達も1942年には憧れの日本を訪れる事になって居る。何よりも楽しみなその目的の為に私共のクラブ員は両親から頂く少しの小遣いも無駄にしないやうにすべてに倹約、貯金し、又学校の余暇には少しでも働いて日本へ行く時の助けに致さうと心掛けて居る。(中略)倶楽部員は毎月一回順々にクラブの人の家でミーティングをする。今私達はやっと15、6歳になったばかりの少女だが、これから社会のためになることをしたい」


主婦之友社主催の日本見学

太陽ガールズ日本見学が大成功を収めたので、日本の大手出版業者の主婦之友社が、アメリカ二世女子、大学卒の二世嬢の日本見学を企画した。

「主婦之友社では二世ガールを招く」(1940年1月15 日号)

「大学卒の5、6人の二世ガールを日本に招き、日本見学させて将来日米両国のために活動できる人物を作りたいと今回山田わか女史から太陽倶楽部、岡田伴三氏に人選を依頼して来た。出発は2月15日平安丸。シアトルから3人、ポートランド、ヤキマ他から2、3人」

「日本に招かれる二世ガールズ」(1940年1月19、26 日号)

「4人決まる。主婦之友社、ワシントン大学卒4名、オレゴン大学卒2名、2月23日出帆予定 」

「見学団の名称」(1940年2月6日号)

「主婦の友社二世嬢見学団名称,が『主婦の友大学卒業生祖国見学団』と決まった」

「日本見学の第二世嬢」(1940年2月23日号)

「主婦の友社に招かれて大学卒の第二世嬢5名は本日午後2時出帆の平安丸に乗船したが、見送り多数にて盛大な船出であった。一行中の清水、堀内両嬢は今朝本社来訪。出発の挨拶をされた」

『北米時事』1940年2月23日(領事館庭園にて記念撮影)


浸礼ガールズの日本見学

1899年に創立されたシアトル日本人浸礼教会でも1940年頃二世女子の見学団を結成し、日本見学を行った。

「浸礼の女子見学団、氷川に乗船出発」(1940年1月12日、2月24日号)

「浸礼教会女子青年部の日本見学団13名、明日2月25日送別晩餐会、3月4日氷川丸で出発、5月下旬シアトルへ帰る。日本陸軍病院、海軍病院訪問予定」

「浸礼ガールズ氷川丸で日本へ」(1940年3月2日号)

「浸礼女子見学団12名は3月1日、日本人会教育部主催で送別茶話会を開催した。役員部員も出席。藤平部長が司会し、三原日本人会会長の挨拶の後に、団員代表の謝辞あり。散会後、団員は橋本牧師に引率されて本社来訪して挨拶された」

『北米時事』1940年3月2日


まとめ

1934年のシアトル在住二世の年齢別人口実績から1939年のシアトル市の二世女子の年齢別人口予想をみると、15歳から24歳までの二世女子が約1000人いた。今回の記事の日本見学団はこの中の約30名の二世女子達だった。

第13回でお伝えしたように結婚適齢期の二世女子は、シアトルでは適齢期の二世男子が少なかった。このため二世女子の日本見学は、見学終了後に両親の出身地にしばらく滞在し、よい結婚相手はいないか捜す目的も同時にあったのではないかと推察される。

筆者がこの二世女子の日本見学の様子を見て感じたことは、彼女達がこの長期間のハードスケジュールの中で、一人の病人もなく元気で、又高い好奇心を持ち見学したことだ。二世女子達は健康で知的好奇心に溢れていると感じた。

日本見学は、二世女子達がアメリカだけでなく、日本のこともよくわかる日系アメリカ人になって活躍してほしいという、一世達の強い願望があったように思える。

次回は二世男子の間で隆盛を極めた柔道についての記事を紹介したい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

2.岡田瑠璃子さんは当時徳島に滞在中。

 

参考文献

在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年
『北米年鑑』北米時事社、1936年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年8月30日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2023 Ikuo Shinmasu

日本語新聞 新聞 シアトル 北米時事(シアトル)(新聞) ツアー (tours) アメリカ合衆国 ワシントン州
このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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