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戦前シカゴの日本人

無名戦士たちの墓

シカゴに日本人墓地ができたのは、1935年1月に設立された日本人共済会の努力のたまものである。もともと共済会は、会員百数十名から50セントの会費を集め、会員が病気になったときは医師及び入院の世話、死亡の際の葬儀及び死亡手続きの一切をひきうけることを目的に設立された。と同時に、設立当初から、共同墓地購入と基本金確保を目的に、約1000ドルの寄付を同胞から募集する運動も開始した。

当時、シカゴ市内のどの墓地も日本人にはなかなか土地を売ってくれなかったという。しかし共済会は、設立2ケ月後の1935年3月、シカゴ北部にあるモントローズ墓地の一角、200フィート四方を600ドルで確保することができた。墓地代として450ドル、永代墓地整理費用として150ドルを支払っての購入だった。以後、シカゴで日本人が死亡すると、このモントローズ墓地日本人セクションに埋葬されるようになった。

それでは、1935年以前はどうだったのだろう。当時の日本人はシカゴ市内のあちこちで暮らしていたが、死後も市内のあちこちの墓地に埋葬された。資料に一番よく出てくるのが、シカゴ南部にあるオークウッド墓地である。なぜ日本人がオークウッド墓地を好んだのか、その理由は今のところ不明である。 

清水鉄吉の墓

オークウッド墓地に最初に記録を残した日本人は岐阜県出身の清水鉄吉である。清水は、1890年にシカゴにやってきて醸造業をはじめた高峰譲吉に呼び寄せられ、1892年30歳の時に渡米した。高峰は清水の大学時代の先輩で、高峰が農商務省にいたころは、彼の研究助手を務めていた。その関係からか、清水は、学術研究という名目で旅券を取得し、シカゴさらにイリノイ州中部にあるペオリアにやってきた。

しかし渡米からわずか4年後の1896年5月、清水は肺結核で命を落とし、高峰の自宅(6641 Woodlawn Avenue, Chicago)で葬儀がとり行われた。清水の遺骨は、高峰のもう一人の助手、杜氏の藤木幸助が1896年夏に日本に帰国したときに持って帰ったと伝わっている。立派な墓石に刻まれた清水の名前は、たとえわずかな時間でもシカゴに足を踏み入れた清水鉄吉の生きた証である。

もう一人オークウッド墓地に真新しい墓石を残しているのが、シカゴで娼館を経営し、1909年9月に死亡した柴田忠次郎である。戦後の1950年に、孫にあたる歌手の渡辺ハマ子が墓を訪ねたときに、新しくつくった墓石だろうか。

柴田忠次郎の墓

福島武二の墓はシカゴの北部、ローズヒル墓地にある。墓碑はコックス家と共有で、墓碑の東側に福島、西側にはCoxの名前が刻まれている。が、福島とコックス家の関係は不明である。福島のみならず、埋葬されているコックス家の3人の生まれた年、死亡した年の情報は一切なしという不思議な墓石である。

福島は鹿児島出身で、東京で中学校の校長をしていたが、アメリカ大陸への雄飛を希望し、1890年に渡米した。1891年秋に、セントルイスにあるワシントン大学法学部のジュニアクラスに入学した記録が残っている。が、どうやらシカゴでコロンビア博覧会が開かれた1893年あたりから、プロフェッサーの肩書で、日本に関する講演業に乗り出したらしい。20年近く講演をしながら全米を回っていたが、1910年12月27日、バージニア州で死亡した。なぜ福島の墓がシカゴに、しかもコックス家の墓石を借りているのかは誰にもわからない。

福島武二の墓

実は、名前が刻まれた墓石があるのは非常に限られた、ラッキーな人たちである。1871年の渡米から1938年の死亡まで、60年以上をシカゴランドで過ごした小川道太郎の墓は、シカゴの西の郊外、フォレストホーム墓地にあるが、墓石はない。墓地で荼毘にふされて、そのまま無縁墓地のようなセクションに埋められてしまった人も多かろう。

松尾一郎もそんな墓石のない、無縁墓地のようなセクションに埋められた一人である。長崎出身の松尾は、コロンビア博覧会見物のためだろうか、1893年にシカゴにやってきた。29歳だった。その後、美術学校に通い、日本画を描いて、新聞に紹介されることもあった。

興味深いのは、松尾が、日本人としてはめずらしく、ニコラスという洗礼名をもつカソリック信者だったことである。1897年には、シカゴのセントマイケルズ教会で斉藤吟子と結婚、同教会で斎藤吟子もカソリックの洗礼を受け、マリアと名のった。その後、松尾は40年以上をシカゴで生き抜き、1938年5月、シカゴ郊外にあるカソリック系のマウントカーメル墓地に骨を埋めた。無縁墓地のようなセクションはあまり手入れが行き届いているとは言えず、筆者が訪ねた春の初めには雑草がうっすらと生えていた。

松尾が埋められた無縁墓地のセクション

シカゴの南にあるマウントホープ墓地に建つプレスクラブの墓碑の下に埋葬された鈴木重陽も興味深い一人である。

鈴木重陽が埋葬されたプレスクラブの墓地

鈴木は、1892年あたりにシカゴにやってきて、コロンビア博覧会で日本物品展示販売を手伝った後、日本文化紹介の講演でひっぱりだこの人気を博した。が、何で生計をたてていたのかはよくわからない。日本人との接触を嫌っていた鈴木は、シカゴの有名クラブの一つ、プレスクラブの唯一の日本人会員として、クラブに居住していた。1915年5月、テキサス州で死亡すると、クラブの会則にのっとり、プレスクラブの墓地のロットに白人メンバーと共に埋葬された。この時代、白人とともに同じ墓に眠っている日本人は、アメリカ広しといえども鈴木重陽だけ、とは言いすぎだろうか。

シカゴで死を迎えた日本人の中で一番幸せだったのでは、と筆者が想像するのははヤクラ・マサキチである。1883年に神戸で生まれたヤクラは、1905年にハワイでアメリカ海軍に入り、1917年7月には第一次大戦に従軍、メキシコ戦役従軍記章(Mexican Campaign Medal)を受け取った。

そのあいだに、同じ上司のもとで働いていたアーカンソー生まれの黒人女性ベルと結婚した。上司はこの結婚は海軍にとって望ましくないと考え、ヤクラを別の上司のもとに異動させた。それでもヤクラは、1921年にイリノイで除隊するまで、スチュワードの仕事を立派に勤めあげ、昇進を重ねた。除隊後は、シカゴの北部の町、ワキーガンで料理店を経営、1956年1月に死亡した。

生前ヤクラは市民権を申請したが、残念ながら拒否されたままに終わっている。理由は不明である。

そのヤクラの墓は、ワキーガン近く、ガーニーの町のウォーレン墓地にある。

ヤクラの死後、親しくしていたと思われるMrs. Genora Payneが、墓石のなかったヤクラのために、退役軍人の墓石を何度も政府に申請、1年後に認められたのだった。ヤクラは今、妻とともに仲良く並んで眠っている。ヤクラの墓石には、退役軍人だったことを示す青い印がついている。独身男性が圧倒的に多かった戦前シカゴの日本人の中には、誰にも看取られることなく孤独死を迎えた人も多かったのではなかろうか。ヤクラの墓には、筆者がそれまで見たことがなかったようなほほえましさが漂っていた。

夫婦で墓石を並べるヤクラ・マサキチ

シカゴの日本人は、従来のハワイや西海岸を中心にした在米日本人史にはほとんど現れることがなかった無名戦士たちである。たとえ無名でも、自分に与えられた時間をシカゴで懸命に生きた人たちである。 

© 2023 Takako Day

cemetery Chicago Issei prewar

このシリーズについて

これまで日本人移民史といえば、ハワイと西海岸を中心にして語られてきた。日本人の人口が多く、日本町では多くの物語が生まれたからだろう。戦前シカゴには日本町はなかった。国勢調査によると、日本人の人口は1930年が最大だったが、524人を数えたにすぎず、中国人2757人の5分の1ほどだった。1930年のシカゴ市の人口は約338万人。その中の500人あまりは、吹けば飛ぶような存在と見なされても当然だろう。

しかし、そうではなかった。数は少なかったが、日本人には存在感があった。「たった一人」の存在感である。それはまさしく、未開の土地を自分の手で切り開いていったアメリカ人のパイオニア精神にも匹敵する存在感といってもいいだろう。戦前シカゴの日本人は、今日まで続く日本人に対する一般的なステレオタイプ、たとえば集団で行動するとか「顔」が見えないといったイメージを自らの手で破り、生き生きとシカゴで生活していた。このシリーズでは、「たった一人」でシカゴのアメリカ社会に向き合ったユニークな日本人たちを紹介する。