元上司は麻生太郎副総理
同船者会の辻哲三会長(78歳、兵庫県出身)は開会の際、「本日はにっぽん丸着伯から50年、今や会員も寄る年波には勝てず減少傾向が見られ、自然消滅を避けるため、ケジメをつけるため、にっぽん丸最後の日を設けました。静かに消えるのが普通ですが、最後の移民船なので50周年を記念した式典で区切りを付けました」と終わりを匂わせる物悲しい言葉で挨拶を始めた。
でもすぐに「ただしこの会は存続し、55周年に向かっての門出として元気に出発したいと思います」と続けた。さらに「日本移民が一番栄えた時期は1960年代の半ばから1980年代前半だと思いますが、セアザ、コチア、南銀、さらに日本からの大型投資物件も重なり、リベルダーデ界隈は大いに賑わいました。我々がサンパウロに着いた当時は、日本移民の最盛期として栄え、リベルダーデは日本食品、寿司、旅館が立ち並び、何でも日本語で通じて便利な町でした」と懐かしそうに振り返った。
辻さんは工業移民として独特のブラジル観を持っている。「ブラジルは資源大国として立派に成長して行ける国だと思っています。ただし、超大国になるには技術不足が問題となるでしょう。(中略)カトリック王国のポルトガルの影響を受けたブラジルには、『労働は神から与えられた罰』、すなわち『原罪をつぐなうために神から課された罰なのだ』という労働を軽視した伝統を受け継ぐものである。これはプロテスタントとは全く異なる解釈で、16世紀の宗教改革や18世紀の産業革命の影響を受けずに重商主義を続けたブラジルには技術がなかなか根付かなかった」と見ている。
加えて「ブラジル人には働くのが嫌いという労働軽視、あるいは奴隷時代の後遺症が今でも続いている。我々がブラジルに着いた当時の中国はみじめな国であったが、今や世界第2位の超大国となり、ブラジルの超大国への道は遠のいた」との分析を述べた。
最後に「ブラジルで一番若い世代の日本人として一日でも長く生きて、次の55周年を迎えましょう」と明るく呼び掛けた。
辻さんは来伯すぐの1973年から76年まで進出企業のJATIC社に勤務した。昨年10月まで日本国副総理兼財務大臣兼金融担当大臣だったあの麻生太郎氏が、サンパウロ駐在時の1975年頃1年間ほど社長を務めた、麻生セメントのブラジル子会社だ。言い換えれば、辻さんは麻生副総理の元部下だ。
「麻生さんの方が4歳年上でね、今のように大政治家になるとは、あの当時まったく思いもよらなかった。何人かで一緒に料亭に飲みに行ったこともある。実に気さくな人だった。でも私的な話は一切しない人だったね」と思い出す。
辻さんいわく、麻生セメントが本業でブラジル支社を作ろうと軍事政権に許可申請をしたが、なかなか許可が下りなかった。とりあえず、本業ではない電気や空調工事をするこの会社を作って時間稼ぎをしているような感じだったとか。だが73年の石油ショックを経て、業績が悪くなったため、辻さんは76年に同社を退職。数年後には進出を諦め、この子会社自体が閉鎖されたとか。
愛情がこもったアトラクションの数々
当日は馬場さんが約200枚の写真を編集した動画が上映された。横浜の移住センターでの研修中や船中の生活、サントス港上陸の様子など、思い出深い写真が次々に映し出された。
さらに童謡「靴が鳴る」の替え歌、「にっぽん丸」の歌も《海のあおさに心もそめて/夢をやさしくあたためながら/水尾(みお)あざやかな白い船/沓(とお)いあの日のにっぽん丸よ》と全員で合唱された。多田さんが詩を考え、30周年の時から歌っている。
家庭ごとに近況報告をする際、くじ引きが行われ、パズルのように絵の断片を少しずつ組み上げていくアトラクションも行われた。最後に現れたのは、もちろんにっぽん丸の絵だった。これも多田さんの労作だ。
最後は「にっぽん丸からの手紙」も披露された。壁に貼られた5メートルほどの巻紙には、最初は覆いがかけられて文面が読めなかったが、所々に穴があけられていた。そこに参加者が思い思いに自分の名前を書き込んでいった。
最後に覆いが御開帳となり、擬人化されたにっぽん丸から同船者への手紙《1973年2月14日に横浜を出ました。寒い桟橋で皆さんと初めてお目にかかった時は、日本にもこんなに希望に輝く青年たちがいたのかと胸が熱くなった一瞬でした》という内容を多田さんが読み上げた。
参加者が自分の名前を書き込んだ箇所は、《花嫁として乗船された女性の「中村」さん、「多田康子」さんのお顔ににじむ決断と覚悟にはさしあげる言葉が見つからないほど感動しました》のように文章に自然に組み込まれていた。実に凝った演出で、これも多田さんが考えたものだった。
同船会はいくつか取材してきたが、これほど愛情の籠ったアトラクションが幾つも行われるのは珍しいと感じた。
「国境を越えると人間が変わる」のではなく、「国境を越えた先の異文化に、自分を変えてでも適応できた者だけが移住先に残る」のではないか。であれば、同船者は、移民人生の激戦を共に勝ち抜いてきた〝戦友〟のような関係かも。取材後、後ろ髪をひかれる思いで会場を後にした。
*本稿は、『ブラジル日報』(2023年4月18日)より転載。
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