深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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在外ウチナーンチュの活躍により琉球王朝時代の外交手腕の復活を! 辺野古米軍基地移設問題のオルタナティブ — その2

その1を読む>> ブラジルやハワイから数千人が駆け付ける大イベント 下地さんがホワイトハウスの前で、辺野古基地問題で揺れる沖縄知事選に出馬したことから連想されるのは、次のような日系人を巻き込んだ新戦略だ。 今年10月末から那覇で第7回世界のウチナーンチュ大会が開催される。ここで築かれてきたネットワークを活かして、米国内からアメリカ人であるウチナーンチュの声を通して辺野古問題を訴えるという戦略だ。 これは1990年から5年に一度、世界の沖縄県系人が那覇に集まってくる大イベントだ。沖縄にゆかりのある人々を結びつけた国際交流ネットワークを作り上げることを目的に、通常ならブラジルからだけで1千人以上、ハワイや北米からもそれ以上が参加する。 2011年、第5回大会の時に取材した。当時のハワイ州知事のニール・アバクロンビーさんは沖縄県系人と一緒にジャンボ機をチャーターして那覇入りしていた。 ハワイ州知事の講演を聞くと、「僕が小さい頃、カナシロという単語はレストランと同じ意味だと思っていたよ」と沖縄県系(ウチナーンチュ)への近親感をあらわに、そう英語で演説して会場を爆笑の渦に巻き込んだ。同じ太平洋の「島人」、ハワイ生活者としての同胞意識が言葉の端々から伺えた。 同大会では、あらゆる場面でハワイ勢の存在感が強かった。県系人最多のブラジルからは1千人だが、ハワイからだけで同数が馳…

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在外ウチナーンチュの活躍により琉球王朝時代の外交手腕の復活を! 辺野古米軍基地移設問題のオルタナティブ — その1

ホワイトハウス前での出馬宣言は酔狂か? 下地ミキオさん(沖縄県出身、60歳、前衆議院議員・元郵政民営化兼防災担当大臣)が7月13日、沖縄県知事選に出馬するに当たって、米国ワシントンまでいって次のように出馬宣言をした。 「ホワイトハウス前で出馬を表明した理由は、戦後沖縄の運命がホワイトハウスのジャッジによって左右されてきたからであります。 77年前、沖縄がアメリカの施政権下におかれ、それから27年後、沖縄が日本復帰したこと、これらはすべてホワイトハウスのジャッジでした。 沖縄の日本復帰から50年、今もって在日米軍基地の7割が沖縄に集中している現実も、日米地位協定の抜本改定をアメリカ政府が認めないことも、すべて、ホワイトハウスが決めてきた歴史があるのです。 私が今回、沖縄県知事選挙に立候補するにあたって、“基地問題を本気で解決するために立候補する”という強い意志を示すために、マスコミの前で出馬会見をするのではなく、沖縄の運命を決めてきたホワイトハウスの前で出馬表明をすることにしたのです」――この動画を見て新しい可能性を感じた。 「沖縄の歴史を決めてきたのは東京ではなくワシントンだ。日本政府といくら交渉してもらちがあかない」という苛立ち、ニヒリズムは多くの沖縄県民にも共有されるに違いない。 下地さんは、ブラジル日系社会では日系4世ビザ制度の創立…

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明治初期に南米公演した軽業師・ブラジルに住んだ最初の日本人は誰か? - その2

その1を読む>> 1873年5月にサンパウロで公演? 1873(明治6)年1、2月にウルグアイで公演し、翌3月には亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。なんど「Satsuma」で検索しても残念ながらブラジル国立デジタル図書館サイトでは、今のところ引っかかるものはない。 ただし、「japonesa」で調べた時、なんと『コレイオ・パウリスターノ』紙1873年5月10日付がひっかかってきた。開いてみると4面に、日本人軽業師の広告があるのを見つけた。 《初公開、大きな梯子を使った超難易度のA Escada Japoneza(日本式階段芸)executados pelo appulaudido artista Jeronymo e o menino Joannito(絶賛を受ける芸人ジェロニモとジョアニット少年による)》とある。 これはペレイラ兄弟サーカス団の公演の一部で、場所はサンパウロ市ラルゴ・サンベンド、1873年5月10日(土)夜8時からだ。なんと笠戸丸35年前にサンパウロ市セントロ区のサンベントで、日本人として初めて軽業芸を披露していたようだ。これは、日伯交流史を大きく塗り替える出来事といえる。 ウルグアイ、アルゼンチン公演と同じ年の5月に、サンパウロ市で日本人軽業師が公演している。ということは、何らかの理由でサツマ座の一部が分かれて、ブラジル公…

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明治初期に南米公演した軽業師・ブラジルに住んだ最初の日本人は誰か? - その1

ブラジルに最初に足を踏み入れた日本人は、1803年にサンタカタリーナ島にロシア軍艦で着いた、若宮丸の漂流民4人であった。だが彼らは通過しただけだった。 幕末に最初にブラジルの土を踏んだ日本人は、1866年10月25日、榎本武揚ら幕府留学生が開陽丸でオランダの港を出発し、リオ・デ・ジャネイロを経由して、翌1867年3月に横浜港に帰着した時だ。 最初にブラジルに「骨を埋めた」日本人は、1870(明治3)年にバイア湾沖の英国軍艦で割腹自殺を遂げた、薩摩武士の前田十郎左衛門であった。 日本開国以降で初めてブラジルに渡った日本人は、ブラジル軍艦アルミランテ・バローゾ号で渡航した「大武和三郎」だと言われている。その船は1889年7月に横浜に到着、リオに帰港したのは1890年7月29日だ。 ちょうどその間にブラジル帝政が軍事クーデター(1889年11月)によって倒され、共和国宣言が出されたすぐ後だった。 1889年といえば、日本でも大きな節目の年だった。自由民権運動の訴えをうけいれて「明治憲法」の発布が行われた年だ。以後、帝国議会を開催されるようになり、日本国の背骨が作られたときだった。 そんな時に、ブラジルに来ていたのだから、間違いなく早い。第1回移民船「笠戸丸」は1908年だから、それより約20年もさかのぼる。 ところがウルグアイ、アルゼンチンの研究者の調査を総合すると、どう…

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ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その2

その1を読む >> ポルトガル語新聞の市場を切り開いてきた二世社長 ブラジル国内という市場に注目した場合、新聞が生き残るにはポルトガル語紙面をどう活性化させるかがカギだ。 パウリスタ新聞(当時、小川パウロ社長)が作った初のポルトガル語雑誌『Revista Arigatô』が1987年に廃刊した。当時としては画期的な取り組みだったが採算がとれなかった。 一方、日毎(「日伯毎日新聞」)はポルトガル語別冊『PáginaUm』を1979年4月から土曜版に挟み込む形ではじめていた。日毎ポルトガル語編集部の木村ウイリアム編集長を中心に、1979年4月に土曜版に挟み込まれた形で0号を出した。 邦字紙でポルトガル語面といえば1~2頁ていどのおまけのイメージの時代であり、ポルトガル語だけの別冊というのは初の試みだった。 日本語紙面とは全くトーンが異なり、二世がもつ肌身の時代感覚、たとえば軍事政権からの脱却などのもっと一般社会の時代の空気を色濃く反映していた。 創刊直後からポルトガル語紙面をつくったパウリスタ新聞、ポルトガル語別冊に力を入れてきた日毎に対して、サンパウロ新聞は1960年代頃までポルトガル語面すら作らない方針を貫き、最後まで日本語だけを重視していた。 サンパウロ新聞の水本エドワルド氏は社長在任当時の1985年、次のような発言をしている。「我々は…

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