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「フジヤマの飛魚」見た後に飛魚歌会
梅崎さんはカフェランジアのブラジル人コーヒー耕地に入植し、植民地で畑仕事に従事した。戦争中、日本移民は敵性国民として移動がが禁じられ、ひたすら仕事に打ち込むしかなかった。その中で梅崎さんは写真と文学を学び、1949年に出聖してサンジョアン街で最初の写真館を開業し、子どもを育てつつ文学への情熱を燃やした。
同じ1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、米国ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、次々と「世界新記録」を樹立し「フジヤマの飛魚」と呼び讃えられた。その翌年1950年にブラジルのスポーツ省の招待で、彼らは南米遠征した。
全ブラジル水泳選手権大会がサンパウロ市パカエンブー・プールで3月22日から4日間開催され、古橋選手は400メートル自由形で南米新記録を樹立するなど偉業を残した。特別な計らいで国交断絶以来8年ぶりに、日の丸が公の場所にはためき、辛い戦中を送った日本移民の心を大いに慰め力づけた。
ニッケイ新聞2016年8月12日付《ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡(4)》で、梅崎さんはその時に実際にパカエンブーのプールに大会を見に行った時の感想を、「大会の前には、何を大騒ぎしているんだとけっこう冷めた感じの人もいたし、私もそうだった。でも実…