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戦中度重なる迫害受けた日系学校=泣きながら玉音放送聞いた女生徒 ー その2

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戦中に生徒の日本語書類没収で立退き命令

ベルゲイロ校時代の赤間学院(『財団法人赤間学院創立五十年史』より)

6月20日《日本語云々等に就き生徒が官憲に書類を没収される事件廔々(ろうろう、「しばしば」の意)あり、校内家宅捜索の恐れもあり、今後は自重する様職員会議で申し合わせた。今迄はその度毎に赤間院長、菅野先生の東奔西走で事なきを得た》とある。

戦争中もこっそりと日本語教育を続けていたために、偶然その教材を官憲に没収される生徒がいると学校中が大騒動になった。

7月14日《学校立ち退き問題につき、次の指令があった。(1)ジレトーラ(校長)をブラジル人とする。(2)男子を絶対に居住させない。(3)インテルベントーラ(女性監督)をおく》。

10月31日《校舎の立退き問題について昨年七月、校舎の貸主が変わって以来矢のごとく、明け渡しを申し込んできたが、然し校舎は五カ年契約で正式に借りているので、今後まで二カ年居住する権利があるため、訴訟して裁きを待った》

12月6日《突如立退き命令。早朝、タマンダレー校舎に大型引っ越し用トラックが来て、裁判所の命令で即刻強制退去の命令である。行く先の宛てもなく職員一同各方面に引っ越し先を探したが、午後三時、ようやベルゲイロ街二三五番地を借りることが決まり引っ越しを始めた。今日一日の事件は赤間校長を始め職員一同の憂慮一方ならず、思うだに胸迫るものがあった》

12月20日《卒業式。多事多難の渦中で「蛍の光、窓の雪、苦節三年の師範科の卒業式」誠に胸迫る感激の涙あふれる卒業式であった》

12月25日《母校後援会の設立。(転居したために)来年より二つの校舎を経営しなければならなくなり財政的に苦しくなることを察知し、卒業生、職員有志の発起により母校後援会を設立した。戦争中にも関わらず女子教育に専念する母校を思う一念から卒業生幹部が馳せ参じての会合であった》

当然、日本人の集会は禁じられていたご時世だけに全て秘密裏に行われた。それだけ戦時中においても子弟教育への情熱にはすさまじいものがあった。だが、これで多難が終わったわけではなかった。1943年に関してはなぜか年表に記述は一切なし。


ついに学校閉鎖命令も

【1944年】
1月8日《官憲の家宅捜索。本学院の写真入りの記事が新聞に出た。「サンパウロ市の真ん中に三百名の生徒を擁し日本精神の昂揚を図る黒幕の学校がある。学務当局の怠慢如何に」という記事であった。その夜官憲が分校を包囲し家宅捜索を行ったが、何等の証拠がないので官憲は引き揚げて行った》

3月3日《ひな祭に刑事三人踏み込む。ひな祭の夜、生徒達の歓声がもれたのか刑事三人が踏み込み、優しい生徒達の夢は破られたが、これも時節柄とあきらめるより仕方がなかった》

8月15日《突然視学官ドーナ・スザナ来校。裁縫教室巡視中、一生徒の日本文字で書かれた裁縫帳が発見され、運悪く没収された。これまで日本語の証拠物件が没収されても何とか逃れてきたが、ついに学校の閉鎖命令が下った》

8月20日《職員緊急会議。緊急会議を開き、その機到来迄やむを得ず日本語授業を休止する旨悲痛な申し合わせ、寄宿生のみ裁縫自習の意味において授業を継続することになった》

10月10日《学校新設の認可下付。一、二週間中には開校できると思いつつ約二ヶ月命令通り忠実に守り、視学官が来る度にひっそりした校舎に同情が湧いたのか、本日正式に認可証が下付され学校名も新たに「エスコーラ・ベルゲイロ」として待望の日を迎えた》

10月21日《二ヶ月の授業の空白を取り戻す為、各学科とも大車輪》

【1945年】
8月15日《終戦の勅語を奉戴す。天皇陛下より「ポーツダム宣言受託」の勅語が放送された。職員生徒一同が拝聴した。舎生は宿舎に帰って号泣したのであった》

冒頭の水上さんのエピソードは、年表ではわずか1行で済まされていた。ここから逆に思うのは、この年表にある一行一行の記述には、それだけ多くの逸話が隠されているということだ。


みちへさんの「蒔かぬ種は生えぬ」という感慨

赤間みちへさんは終戦3年目、1948年12月発行の会報第8号の「近時随想」で、次のような一文を載せた。

「蒔かぬ種は生えぬ」と云う極めて低俗な言葉ではあるが、此の言葉が私の胸を強くゆすぶっている。

生活が複雑になって来るにしたがって良き事、悪しき事のさま〲な出来事が、夜に日についで起こって来るものである。此の、事の起こりと言うものゝ一つ〱をじっと静かに見つめ、更にさかのぼって考えて見ると既に何年も前から其の原因を作っていた事に気がつく。

過ぎ去った生活の中の一つゝをふりかえって考えて見ると、良き事よりも大小さま〲のあやまちの方が多かった様に思われてならない

勝ち負け抗争は、戦前戦中の教育が引き起こした結果でもあったと顧みるような一言かも。

同校は戦争中の辛い経験から戦後、1958年9月財団法人に改組を決定した。その際、赤間家の個人財産全て財団に寄付した。ブラジル政府公認校になったのもコロニア初なら、財団法人化も初だった。これは「学校は赤間家個人のものではなく、公のものとなることでより永続する」との考えからだった。

赤間みちへ理事長は『赤間学院創立五十年史』の「よろこびと感謝」の中で、いち早く財団化した理由をこう説明した。《要するに私個人の手を離れたところで、理想の教育と経営面を充実させ、更に学校の永久存続を主眼とするものでありました。「移民の個人事業は三代続くのは稀だ」といわれますが、それは確かに孫や曾孫に時代となれば先代とは又変った躍進があるか?と思えば、その反面先細りとなり、遂になくなる…といったケースのあることも私は知っています。然し法人としての組織は政府とのつながりがあります。

息子や孫だけの問題でなしに、組織の中での有力なメンバーに依って引きつがれるわけで、個人のものではありません。それに学校は国家にとっても大切な文化事業の一つである故、容易に左右されるものではない事を考慮して、思い切って断行しました》

みちへさんの言う「移民の個人事業は三代続くのは稀だ」はまぎれもない現実だ。それを終戦直後の時点で直視し、実行に移したという先見性には頭が下がる。

みちへさんの書いた文章を振り返る中で、彼女の心境を一番よく著わしていると感じられたのは、機関誌『やまと』第5号(1940年11月)の「水に根のない浮草も蛍に一夜の宿をかす」という言葉だ。調べてみると長崎県の離れ小島の隠岐磯節の歌詞だった。馬場直ら同県出身者から聞いたのかも。

「浮草」や「根無し草」とは、故郷を離れた移民の生き様を自嘲するときによく使われる言葉だ。移住先で自分は根無し草でも、子供には現地に根を張らせたい。戦前戦中には主に日本に向かって根を張るような教育が行われ、戦後にはブラジル社会向きに一気に変わっていった。

1世という浮き草を土台に、2世という蛍を育てて旅立たせる。移民の宿命を重ね合わせられる言葉ではないか。

 

*本稿は、『ブラジル日報』(2023年8月15日)からの転載です。

 

© 2023 Masayuki Fukasawa

ブラジル 日本語学校 語学学校 赤間みちへ 第二次世界大戦
執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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