カナダで初めて日本音楽がラジオで流されたのは、1925年2月のことと考えられる。当時日本の帝国海軍は毎年のように練習艦隊を海外に派遣し、遠洋航海の実地訓練をしながら、寄港地においては親善活動を行っていた。1924年11月に横須賀を出港した八雲、浅間、出雲の三艦はメキシコとアメリカを経て翌年2月にバンクーバーに投錨した。2月11日の20時からドリル・ホールで、内藤清五楽長が率いる軍楽隊とカナダ第七大隊軍楽隊が参加した演奏会が開催された。この模様がCFYC局より生中継され、「カルメン」、「ウィリアムテル」、「アイーダ」、「君が代」、「軍艦マーチ」が流されたと報じられている。
1929年12月9日の22時から22時20分には、カナダ鉄道会社の経営するCNRV局で地元在住の日本人が出演する日本音楽特集番組が組まれた。『大陸日報』にはカナダでは初めての試みと報じられている。尺八(佐野)、琴(安部夫人、山下夫人)、三味線(渡邊夫人)の合奏による「摘み草」、「カッポレ」、「春雨」等の邦楽やバイオリン演奏(昭和劇団の中村)が行われた。
CKWX局ではガソリン会社提供の「ホーム・ガス・アワーが」日曜日の21時に放送されていた。1930年7月27日には「ジャパン・ナイト」として、カルビン・ウィンター指揮によるホーム・ガス交響楽団の演奏で日本をテーマにした西洋音楽が特集された。この番組では江戸千太郎領事の挨拶や音楽コンクール少女声楽の部で優勝した大堀文江(12歳)の独唱「イン・パゴダ」と「ア・ジャパニーズ・サンセット」が放送された。
志賀湊川商会放送
バンクーバーのラジオ商である志賀湊川商会は1930年9月より『大陸日報』に広告を出し始め、10月からは大きな広告を定期的に出すようになった。次なるメディア戦略として、同社提供で日系音楽家が生出演する番組を1930年11月にCKMO局で開始した。毎週月曜日19時半~20時の放送である。
11月3日に行われた第1回目の放送にはバンクーバー生まれのソプラノ歌手斎田愛子が美声を披露した。この放送はパウエル街にある同商会の店頭に設置されたラジオで流され、物珍しさも手伝って放送当日には多数の日本人が来店した。
「先日斎田愛子さんが放送されました時は立錐の余地なき迄皆様が御出で下さいましてしばし興を共にされました事を厚く御礼申上げます。次回は11月10日午後7時半より放送なされます。又御出で下さい。」(『大陸日報』1930年11月8日)との報告および次回の予告がなされた。
第2回は斎田愛子と中村哲(サリー)、第3回は斎田愛子、第4回はミカド・ホワイト・ローズ・ハーモニカ・バンド、第5回は林月虹がそれぞれ出演した。
順調に2か月目に入ったかと思われたのもつかの間、12月8日の『大陸日報』に掲載された同社の広告内で「本日の日本人放送は都合にて中止致しました」と告知があり、それ以降番組が再開されることはなかった。突然の中止の理由は伝えられていない。
排日対抗演説と日本音楽
1931年9月に勃発した盧溝橋事件を発端とする関東軍の満州侵攻が国際問題化している中、中国系の拒日救国会の医師徐如悦が3回にわたり日本攻撃の英語演説を放送した。これに対して日本側からの反論を行うため、1931年11月23日にCHLS局で米村穂積による満州問題についての英語演説が22時~22時半に放送された。米村は日本生まれの一世であるが、呼び寄せ移民としてカナダに来て、ブリティッシュ・コロンビア大学を卒業後、日系カナダ市民連盟を組織し、二世を対象とした英字紙『ニュー・エイジ』を発行した人物として知られている。
当初この番組内で演説の前後に斎田愛子が日本の歌を放送する予定であった。しかし、CHLS局での放送予定を聞きつけた別局の強引なラブコールにより、米村の演説とは切り離して、斎田の歌が放送されることになった。斎田愛子は11月24日の20時~20時半にCKMO局の番組に出演し、「波浮の港」、「せっせっせ」、「出船の港」等7曲を歌った。
*本稿は、月刊『ふれいざー』(2022年2月号)からの転載です。
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