ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/7/25/deportistas-nikkei/

アメリカ大陸の日系選手の歴史とオリンピックでの功績

ペルーで日系人の貢献という話になると、芸術やグルメ部門のことが話題になることが多く、誰もがその評価に賛同する。例えば日系二世のティルサ土屋氏は、ペルー史上最高のアーティストとして知られている。

料理の世界では今でこそ普通に「コミーダ・ニッケイ(ニッケイ料理)」というものが認められているが、以前は「日系(ニッケイ)」という言葉の意味さえ理解されていなかった。これは、ペルーに移住した日本人から伝えられた数々の料理が様々な形で現地の「食」に反映されたからである。

しかし、日系人は他の分野でも優れた功績を残している。それがスポーツの部門である。


ペルーの日系オリンピック選手

ペルー日系人協会の施設内にある「カルロス千代照平岡・日本人移住資料館」で、今年の7月から「日系人のスポーツへの貢献」という特別展が開催されている。ここでは、ペルーをはじめ他のアメリカ大陸諸国で優秀な成績を残した日系人選手、特にオリンピックで活躍した選手らが紹介されている。この展示は、もともと日本人メキシコ移住あかね記念館で開催されたもので、アルベルト寺本氏がさらに研究を重ね、今回のペルー資料館における展示へといたった。

ペルー代表選手として五輪に参加した日系人は、合計5人である。

最もよく知られているのは、1968年のメキシコ五輪で4位に輝いた女子バレーボール代表チームメンバーのオルガ・アサト氏である。彼女はペルーのスポーツ選手として殿堂入りを果たしており、ペルースポーツ界最高の栄誉賞(月桂冠)を受賞している。

オリンピックに出場した最初の日系ペルー人選手は、1960年のローマ五輪に男子サッカーチームの代表選手だったトーマス・イワサキ氏である。彼は、フォーワードとして国内のウニベルシタリオ・デ・デポルテスというプロリーグの大会で4回も優勝している名門チームに所属していた。

1964年の東京五輪に競輪競技に参加した日系ペルー人のテオフィロ・トダ氏。(写真:Revista Superación誌)

1964年の東京オリンピックには、ペルー二世大学生協会(AUNP-Asociación Universitaria Nisei del Perú)の金銭的支援をもって出場したサイクリング選手のテオフィロ・トダ氏の名前がある。トダは、代表選手としての資格や技量はすべて満たしていたが、オリンピック参加に必要な資金がなかったので、AUNPが様々な行事を企画して、オリンピック参加の資金を工面したのである。

メキシコ五輪(1968年)には、ボクサーのルイス・ミナミ氏が出場した。その前年、カナダのウィニペグで開催されたパンアメリカン大会で準優勝した選手である。

メキシコ五輪から16年後のロサンゼルス五輪(1984年)に、ホセ稲垣氏がレスリングのフリースタイル選手として参加した。寺本氏の調査によると、以来ペルー出身の日系オリンピック選手はいない。

しかし、日本人の加藤明(あきら)氏が、監督として、ペルー女子バレーボール代表チームを、1968年のメキシコ五輪では惜しくも銅メダルを逃したものの、1973年のワールド杯でも4位へ導いたことは、特筆に値するだろう。

加藤氏はペルーの女子バレーボールチームを飛躍的に成長させた立役者といえる。加藤氏は健康上の理由で、1980年代に韓国籍の朴萬福監督に引き継いだが、ペルーチームは1982年には世界大会で準優勝し、1988年のソウル五輪では銀メダルを獲得した。


水泳、栄光の時代

アルベルト寺本氏の調査によると、1948年のロンドン五輪から2014年のソチ五輪の間に日系スポーツ選手を最も多く輩出したのはアメリカ合衆国で30人にも及ぶという。次いでブラジルが17人、ペルーが5人、そしてメキシコが3人である。また、日系選手による五輪メダルの数は、アメリカが25個、ブラジルが3個、そしてメキシコが1個である。

アメリカの競泳代表チームのフォード・コンノ選手は、4個のメダルを獲得した。1952年のヘルシンキ五輪で、800メートル自由形リレーと1500メートル自由形で金メダル、400メートル自由形で銀メダルを、1956年のオーストラリア・メルボルン五輪の800メートル自由形リレーで銀メダルを獲得したのである。

ヘルシンキ五輪では、とても珍しいことが起きた。1500メートル自由形で、金銀銅メダルを日本をルーツに持つ選手が占めたのである。日系アメリカ人のコンノ氏が金メダル、日本の橋爪四郎氏が銀メダル、そして日系ブラジル人のテツオ岡本選手が銅メダルであった。 

1952年のヘルシンキ五輪の1500メートル自由形表彰台にて。日系アメリカ人のフォード・コンノ氏(金)、日本人の橋爪四郎氏(銀)、日系ブラジル人のテツオ・オカモト氏(銅)。(写真:Wikipedia)

この時、もう一人アメリカ生まれの日系人、ヨシノブ・オヤカワ選手が、100メートル背泳ぎで金メダルに輝いた。

1952年のヘルシンキ五輪で二つの銅メダルを獲得した日系アメリカ人のエヴェリン・カワモト氏。(写真:Wikipedia)

また、ヘルシンキ五輪では、アメリカの競泳選手エヴェリン・カワモト氏も、二つの銅メダルを獲得している。さらに面白い素敵な裏話を付け足すとすれば、彼女は、後にフォード・コンノ氏と結婚したのである。

競泳に関していえば、新たな驚くべき発見もあった。ヘルシンキ五輪からさらに3年さかのぼった1949年、日本の伝説的な競泳選手、古橋廣之進(フジヤマのトビウオという異名を持つ)を含む複数の日本人選手が、全米競泳選手権に招待され参加し、いくつもの世界記録も残した

この時、日本選手団の活躍ぶりは注目の的になったが、第二次世界大戦が終結して間もないアメリカには反日感情が色濃く残っており、選手団は地元のホテルから宿泊を拒否されてしまった。そのため、二世実業家が、自宅で彼らを受け入れたという。

この実業家というのが、フレッド・和田氏で、1964年の東京オリンピック招致に尽力した人物でもあった。その後、1968年のメキシコシティー、そして1984年のロサンゼルス五輪実現にも、和田氏はかかわったという。

古橋選手は、当時のペルー日系社会でも話題になった。

彼とその水泳選手団はペルーを訪問し、日本人移住者一世がリマ市建設400周年を記念して寄贈したオリンピック・プールでエキジビジョン試合を行った。その際、戦後はじめてペルーで日本の国歌が演奏された。

古橋氏率いる選手団のペルー滞在は、単なる訪問ではなく、日系社会にとって意義あるものであった。というのも、戦時中、日系団体の活動はすべて禁止・閉鎖されていたので、訪問時には代表的な日系団体も存在していなかったし、日本と国交断絶していたので大使館もなかったからである。

日本から選手団を迎えるため、当時の一世たちは接待グループを組織した。この組織は1950年に設立される「クラブ・パシフィコ」の前身となる。現在、このクラブは存在しないが、こうしたイニシアチブによって戦後の日系社会は徐々に組織化し、今の形になっている。

日系アメリカ人によるずば抜けた記録

2008年の北京五輪の十種競技で金メダルに輝いたブライアン・クレイ氏。(写真:Erik van Leeuwen / Wikipedia)

他の競技でも、3人の日系アメリカ人がメダルを手にしている。

その一人が日本人の母親を持つブライアン・ツモル・クレイ選手だ。彼は、2004年のアテネオリンピックの十種競技で銀メダル、2008年の北京五輪で金メダルに輝いた。世界陸上選手権では、、2005年に十種競技で、2008年と2020年の七種競技で、それぞれ金メダルを獲得した。

重量挙げ選手のトミー・コウノ氏は、1952年のヘルシンキ五輪と1956年のメルボルン五輪で金メダルを、1960年のローマ五輪では銀メダルを獲得した。上記のクレイ選手と同様、世界選手権での記録はさらに優れており、、6年連続して優勝した。

日系人として最も多くの五輪メダルを獲得している日系アメリカ人のスケート選手アポロ・アントン・オーノ氏。(写真: Noelle Neu / Wikipedia)

ここで取り上げた選手は誰もがみんな素晴らしい結果を出しているが、最も優れた記録を残したのは、日系アメリカ人スピードスケーターのアポロ・アントン・オーノ選手だろう。各オリンピックで、金メダル2個、銀メダル2個、そして銅メダル4個を獲得している。日系五輪選手でこれほど多くのメダルを勝ち取ったものは他にいない。他のアメリカ人をみても、冬季五輪でこれほど多くのメダルを勝ち取った選手は今のところいない。

ブラジルでは、この国に帰化した柔道家の石井千秋選手が知られている。1972年のミュンヘン五輪で銅メダルを獲得、ブラジル柔道界にとって初の五輪メダルであった。また、メキシコのサイクリング選手、ホセマヌエル・ヨシマツ・ソトマヨル氏は、1984年のロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得した。

昨年の東京五輪2020(2021年に実施)には、ブラジル代表の柔道家エリック・タカバタケとガブリエラ・チバナ選手が出場していた。

また、日本の代表女子バレーボールチームには在日日系ペルー人の籾井(もみい)あき選手の名があった。両親は、出稼ぎ就労者として来日し、彼女は日本で育ち高校時代に帰化している。

アメリカ大陸内の日系人の絆 

ペルーで開催されているこの特別展示は、「カルロス・千代照平岡移住資料館」とメキシコの茜資料館が2021年に締結した協定によるものである。

本調査を担ったメキシコの寺本氏は、各国の記録や日本名を頼って日系の五輪選手をリストアップしたという。しかし、中には日本名を持たない日系人もいるので、漏れてしまった日系選手もいるだろう。

いずれにしても、この企画に参加した方々の多大な努力は、アメリカ大陸の日系人史を構築することに大きく貢献し、南北アメリカに存在する日系コミュニティー間の絆を強化することになるだろう。

展示開催後、ペルー日系人協会の日本人移住資料館は同様の協定を、ブラジルとパラグアイの資料館と締結した。今後も新たな連携の道が開くのではないだろうか。

 

© 2022 Enrique Higa Sakuda

ペルー アメリカ スポーツ メキシコ アスリート オリンピック 展示会 運動競技
執筆者について

日系ペルー人三世で、ジャーナリスト。日本のスペイン語メディアインターナショナル・プレス紙のリマ通信員でもある。

(2009年8月 更新) 

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