前回は『北米時事』での有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したが、今回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。
日米大戦突入
1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。
大戦開始の翌日に発行ができた理由は、文献に「北米時事社の編集責任者代理となった日比谷隆美氏がアメリカン・ジャパニーズ・コーリア紙(週刊英文紙)のジミー坂本氏に依頼して、ワシントン州検事総長の諒解をもらった」からだと記述がある。
社員による発行継続
日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。当時の発行を続けた社員ら状況と、その思いが伝わる内容だ。
「社告」(1942年1月2日号)
「米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思ひ、その筋の諒解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。
其の間本社は資産一切を封鎖されましたので直ちに特別ライセンス下附方を願ひ出し、許可のあるのを一日千秋の思ひで待ち侘びましたが、遂に昨年中の間に合はず、集金は勿論、広告の整理等全くなし得ない儘(まま)に越年したのであります。従って新年号の発行も全く不可能となり、其の上読者並びに広告主に非常な不便迷惑をかけました事に対しまして甚だ恐縮して居ります。併し今日まで本社員は殆ど無給料の状態で朝となく夜となく大きな犠牲を払って日本人社会の利益の為活動して居るのでありますから、其の点御了承の上、御寛容願ひたいと思ひます。尚新年号に代へまして1月2日より平常通り本紙の発行を継続する方針でありますから、読者及び広告主の理解ある精神的、経済的後援を願ふ次第であります。本社員一同」
「元気に自治生活」(1942年1月30日号)
開戦直後から連行されて、モンタナ州のフォート・ミズーラ抑留キャンプへ収容された人達が、役員を設けて元気で自治生活を営んでいる記事が、1942年1月30日号に掲載された。その記事によれば、北米時事社でタコマ支社に勤務していた山口正氏が購買部長として役員の一員を担っていた。
日系人強制収容と最後の発行
2月19日には、フランクリン・ルーズベルトによる大統領令9066号が発令されて日本人及び日系アメリカ人の強制収容が現実化することとなった。そんな中、読者へ経済支援を切望する社告を度々と出しながら社員らは発行を続けた。
手を差し伸べる人々もあったようで、2月24日号には「療養所内同胞患者からの後援に感謝」という旨の社告、2月25日号には「某氏から本社員へオレンジ一箱寄贈」の記事などがあった。
3月6日号から11日号まで「経費節減と一日でも長く発行を続けるために発行部数を削減し、一部の読者に発送の停止をせざるを得ない事態である。経済的後援を日比谷隆美宛に送付してほしい」との社告が出された。
1942年3月12日、遂に『北米時事』の発行は終止符を打つこととなった。シアトル市内の日本人全てへ立退き命令が下された4月21日の1カ月ほど前だ。同日号第1面にその終止符を打つ英文が掲載された。日本文に直すと次の通りだ。
「これが最後の発行」(1942年3月12日号)
「明日から、『北米時事』は休刊となる。どの位休刊が続くかよくわからない。しかし、今朝、米国財務省から『北米時事』の発行を中止せよとの命令がきたため、最終的な決定に達した。
日本人住居の活動を正確に説明するために、『北米時事』の記事を常に楽しみにしてきた北西部の何千人もの読者にとって、非常に残念なニュースだ。1902年に創立された『北米時事』が北西部で最も古い日本語と英語のファミリー新聞であるのに、出版を中断しなければならないことに、私たちは落胆している。
米国司法省、戦争担当省、その他の政府機関に対して、貴重な情報を公開する媒体として日本人に奉仕することができなくなったことに、私たちはより失望している。少なくとも日本人が強制収容されるまでは、アメリカの理想と民主主義国家市民として軍や政府役人への忠誠をそのまま維持できるように『北米時事』を続ける必要があると思っていたので、その失望は大きい。
この版は、『北米時事』の『30』*1にあたる。『30』の最終版で、編集者は心底、新聞の日本人読者が米国への信頼を失わないことを望み、米国の国策としての戦争を支持し続けることを望んでいる。 —bf」
英文の最後に「bf」と書かれており、英語編集者のバド更居(ふくい)が筆者だと推測される。
同日号第三面には日本語で「本紙は一時休刊」と題して次のように掲載された。
「本社は米日開戦以来悪戦苦闘、今日まで同胞社会への奉仕を続けて来ましたが遂に本日政府の命令により一時休刊せねばならなくなりました。同胞社会にとって最も重大な時局に於て発行を一時でも停止します事は本社員一同今日までの苦闘に鑑みましても此の上なく残念なのでありますが、政府の命令とあれば如何とも出来ないのであります。
併し本社としましては直ちに各方面の発行許可を仰ぐべく交渉を開始して居るのでありますから、この難関打開の道が開けるものと信じて居ります。若し再刊の許可がありました際には再び全読者の御愛読を御願ひしたいと思います。
最後に今日まで精神的に又財政的に御後援を願ひました読者、広告主諸氏に対し深く感謝の意を表すると共に前途の多幸を祈るものであります」
『北米時事』最後の号は第1万2278号だった。約40年間にわたり、シアトル日本人社会を支え続けた同紙が1つの歴史に幕を閉じた。日米大戦という難局時に、長い歴史で培った強烈な使命感を持って発行を続けた社員らには感服する。
日比谷氏と狩野氏はその後、『北米報知』としての戦後の再生に加わり、北米報知編集長を務めることになる。
次回は1918年から1920年頃に掲載された写真結婚についての記事についてお伝えしたい。
(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)
*編注1: –30–は、北米のジャーナリストが編集作業や原稿を印刷工程に出す際に伝統的に使用してきた、「記事の末端」を意味するフレーズ。(Wikipedia.com)フクイは「30」を『北米時事』の最終版であることを示すために使っている。
参考文献
伊藤一男 『続北米百年桜』日貿出版、1971年
伊藤一男『アメリカ春秋八十年 -シアトル日系人創立三十周年記念誌-』PMC出版社、1982年
『北米報知』創刊百周年記念号、2002年秋
有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年
*本稿は、『北米報知』に2022年2月4日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。
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