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第5回 トビウオが変えた岡本の運命

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岡本の業績と人柄をまとめたドキュメンタリー映画『O nadador – A história de Tetsuo Okamoto』(以下『競泳選手』と略、2014年、26分、ポ語、ロドリゴ・グロッタ監督)で、姉の鈴枝さんは弟の性格を《とにかく控えめで、あまり社交的ではなかった。勉強よりも、ひたすらスポーツに打ち込んでいた》という。コロニアであまり知られていなかったのは、そんな性格も影響したのかも。

マリリアでの幼友達トニーニョ・ネットさんも《哲夫は頭がデカくて、身体が細かったから、タッシーニャ(小さなトロフィー(優勝杯)と綽名されていた》(同映画)という。

1952年9月6日付のパウリスタ新聞。凱旋した岡本選手はルカス・ノゲイラ・ガルゼス聖州知事を表敬訪問し、アブラッソ(抱擁)された

1950年当時、コロニアでは注目されなかった岡本。その時、日本の水泳使節団一行から、「いい成績を出したかったら、もっと練習量を増やさないとダメだ」とのアドバイスを受けた。それまでは1日に1千メートルしか練習していなかったが、毎日1万泳ぐようアドバイスされ、その言葉を忠実に守った(前出の『ニッケイ新聞』)。

『フォーリャ・デ・サンパウロ』紙2007年10月3日付の岡本の訃報記事には「当時は温水プールがないので寒さと闘い、塩素で目を真っ赤にしながら、毎日1万メートルのノルマをこなした。狂信的といえるほどだった」と書かれている。でもそれが彼の人生を変えた。

日本オリンピック委員会サイトにある「Japanese Oliympian Spirits」連載の古橋編を見ると、現役時代には「練習量も1日2万メートルは珍しくありませんでした」とあるので、岡本の2倍は泳いでいた。凄まじい特訓の成果が、世界新記録を生んでいた訳だ。

岡本の特訓の成果はすぐに表れ、翌年からぐんぐんと頭角を現していった。1951年2月末から3月初旬にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた汎アメリカン大会(Jogos Pan-Americanos)の400メートルと1500メートル自由形で優勝したのだ。

岡本は汎アメリカン大会で初めて優勝したブラジル人となった。おりしもブラジルは初の自国開催サッカーW杯(1950年6~7月)の決勝戦でウルグアイに惜敗した。そのショックから半年、まだ立ち直っていなかった。そんな時、南北アメリカ大陸で1位となった岡本は、そのトラウマを癒す役割を担った。

マリリア市は祝日を宣言して、岡本をオープンカーに乗せて町を凱旋パレードさせると、市民は熱狂した。ところが、そのパレードの最中、岡本の自宅には泥棒が入り、金品を盗まれるという当地らしいオマケのエピソードまで。

喜んだマリリアの日系社会では、自動車を1台、岡本にお祝いで上げようとしたが、彼は断った。「五輪選手はアマチュアでなければならない。賞品と間違われる可能性のあるものを貰うと、アマチュアの資格を失う」と考えたからだ。

現在のようにプロ選手が参加する時代とは大きく違っていた。

南半球のハンデ乗り越え

1952年6~7月は寒い冬だった。練習していたマリリアのプールがあまりに冷たく、練習を諦めることもあったほど。理想的な五輪準備にはならず、一時は「ただ参加できればいい」と諦めようかと迷うほどだったようだ。

ちなみに、2016年のリオ五輪は、近代オリンピックとしては第31回目で南米初。それ以前に南半球で開催したのは、2000年のシドニー大会のみ。このように五輪はほぼ北半球の大会なので7~8月に開催される。「夏の五輪」であっても南半球では真冬であり、現在のように温水プールが普及していなかった当時、このハンデは大きかった。

でも岡本はあきらめなかった。映画『競泳選手』には、興味深い証言がたくさん出てくる。たとえば、同じヘルシンキ五輪の競泳選手団の一人、イロ・ダ・フォンセッカさんは、こんな証言をする。

直前の合宿はリオのグアナバラのプールだった。《そこで一緒に練習した。〃一緒に〃といっても、実はちょっと違うんだ。我々は毎800~1千メートル泳いだ。彼はそれが終わるの待って、一人で黙々と泳ぎ始めるんだ。何をやっているんだろうとコッソリのぞいてみたら、なんと休みなしに4千~5千メートルも一気に泳いでいたので、奴はキチガイだと思った。しかも1日2回だ。なんでも日本の水泳団直伝の練習法だとか》と呆れたような表情で思い出す。

サンパウロ州と違い、リオは冬でも暖かい。それまでの遅れを取り戻すかのように懸命に泳いだ。

ヘルシンキでは、生まれて初めて温水プール(約27度)を体験し、「こりゃ素晴らしい」と感激した。『パウリスタ新聞』1952年8月13日付には、母ツヨカは現地の息子から「毎日練習に励んでおり、千五百では最後まで頑張るから」との手紙をもらったと書かれている。その言葉のとおり、最後まで踏ん張った成果が夢の銅メダルだった。

同紙には姉のコメントも掲載されている。「哲夫の三位入賞はちょっと意外だったの。せいぜい五位か六位に入れば良い方と思っていたのが三位でしょう。それが水上で初めてのブラジル国旗なのでヤーラ倶楽部の皆さんを始め、哲夫の友達や知人、とくにブラジル人の方々から心よりの喜びの言葉を戴いたので、私までボーッとしちゃったの」とあり、家族も驚くような大健闘であったことが分かる。

興味深いことに、3位を報じた『パウリスタ新聞』1952年8月3日付は、多くの伯字紙がしたような大きな扱いではなく、控えめな3段記事だった。

ちなみにパ紙のその日のトップは「マカコ事件」。まさに勝ち負け問題の余韻がまた色濃く残っていた時代だったことが伺われる。カタは移民史映画製作の裏話。こちらもやはり勝ち負け絡みだ。

1位の紺野フォードは1933年にハワイ州で生まれ、ホノルルのマッキンリーハイスクール、オハイオ州立大学でも競泳選手として活躍した。1952年のヘルシンキでは金メダル二つと銀一つの計三つ、次のメルボルン五輪(56年)でも銀一つを獲得した米国競泳界のヒーローだ。

つい2年前の1950年にブラジル中を沸かせた来伯団の一人、橋爪と争って表彰台に立った岡本の胸中には、さぞや感慨深いものがあったに違いない。

ところが、肝心の「フジヤマの飛魚」本人、古橋廣之進は南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、ヘルシンキ本番では400メートル自由形8位に終わった。

2011年6月7日付『日刊スポーツ』電子版にはそんな古橋に関し、《世界記録を33回更新し、戦後復興のシンボルとなった国民的ヒーローは、結局五輪のメダルを1つも手にすることなく現役を退いた。50年の南米遠征でかかったアメーバ赤痢の影響もあった。45日間で20試合、サーカスのような転戦。各国の日系人から歓迎され、水泳ニッポンの「顔」は休むことも許されなかった》とある。当地からすると、少々あてこすりのニュアンスに読めなくもない。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月20日25日)からの転載です。

 

© 2016 Masayuki Fukasawa, Nikkey Shimbun

ブラジル サンパウロ 水泳 シルビオ・デ・マガリャンエス・パジーリャ 岡本哲夫
このシリーズについて

このシリーズでは、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)の歴史を振り返る。ブラジルの「ニッケイ新聞」(2016年)からの転載

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執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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