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第1回 ヘルシンキ五輪・競泳で初メダル

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表彰台の上、左から沈んだ表情に見える2位・橋爪、1位・紺野、一番晴れ晴れした表情をした3位・岡本(『ガゼッタ・エスポルチーバ』紙1952年8月3日付)

二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)は、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした。彼が表彰台の3位に登ったのは、1952年8月3日。ヘルシンキ五輪(フィンランド)の1500メートル自由形競泳だ。しかも、その時の表彰台には日本人の血を引く三人が占めた。当時、邦字紙では五輪における日本勢の健闘が記事の中心だった。ところが、勝ち負け抗争の余韻が強く残っていて日本移民への悪印象が強かったにも関わらず、ブラジルの新聞は「ジャポネース」の健闘を大々的に報じ、心から祝福した。

ヘルシンキ五輪閉会式の当日、1952年8月3日午後、1500m自由形競泳の表彰台には、1位にハワイ出身の日系アメリカ人の紺野フォード(18分30秒3)、2位に日本の橋爪四郎(18分41秒4)、3位に日系ブラジル人の岡本哲夫(18分51秒3)が並んだ。岡本は身長178センチ、体重69キロ、鍛え上げられた筋肉質な体には、サムライの精神が宿っていた。

『ニッケイ新聞』2004年8月14日付によれば、1500mの最後のターンの時、岡本は苦しくて卒倒しそうだったが、「お前はサムライの子孫だ。大和魂を見せてから死ね!」という父親の声が聞こえ、「もう死んでもいい」と無我夢中で泳いたという。時代を感じさせるコメントだ。

でも、この気合、踏ん張りが無ければ、彼が表彰台に立つことはなかった。なぜなら4位の米国ジェームス・マックレーンとの差は、わずかコンマ2秒(18分51秒5)だったからだ。

岡本は3位入賞を知らされた時、嬉しさのあまり頭が真っ白になり、知らないうちに涙を流していたという。

岡本は予選で19分5秒6(ブラジル新、南米新)を記録して決勝に進んだ。これだけでも十分に誇れるタイムだった。ところが決勝ではさらに15秒近くタイムを縮め、なんと18分51秒3(南米新)を記録した。これはその後10年間も南米で破られなかった大記録だった。

1位の紺野との差は約20秒、2位の橋爪とは10秒。前年51年3月のパンアメリカン大会の同種目で、岡本の記録は19秒23秒3だった。それから1年半後の五輪までに、実に30秒もタイムを縮めていた。

岡本は凱旋直後の52年8月に『ウルチマ・オーラ』紙の取材に答え、「あと(練習期間が)2カ月ヘルシンキまであったら、1位を狙えた」との勇ましいコメントを残した。それほど20歳の肉体は驚くほどの発達を遂げていた時期だった。

でもそれは、持って生まれた才能だけではなく、日伯交流が生んだ奇跡的な特訓の成果だった。

『パウリスタ新聞』1952年8月3日付では岡本の五輪3位はトップ記事でも、その次の左カタでもなく、「3段記事」扱いだった。でも当時の伯字紙は大見出しで報じていた。


開拓地プールでカエルと泳ぐ

岡本哲夫の父専太郎はいわゆる農業移民ではない。1892年北海道札幌市生まれのインテリで、測量技師の資格も持つ自由渡航者として1912年にイギリスからアマゾンを経て入伯した。母ツヨカは福岡県の出身だった。

専太郎は息子に「お前はサムライの子孫だ」と説いたほどだから、実際に士族の出で、明治期に本土から北海道開拓に入った家系かもしれない。

19244年のイジドロ革命時にはサンパウロ市のコンデ街で生活し、大正小学校(1915年創立)の後援会が創立した時(1920年)、発起人の一人に入っている。革命の年にドアルチーナに移転、1932年からマリリア(1929年市制開始)へ移り、戦前の同市における日本語教育界の重鎮となった。

専太郎はマリリア市日本人会の会長も務め、パウリスタ延長線教師連盟やパウリスタ教育会の創立に尽力した。この教育会が毎年、資金を集めて修学旅行、作品展覧会、学芸会、陸上競技会、柔剣道大会を開催した。日語教育が華やかだった1937年当時、汎マリリア地域だけで1740人の生徒が在籍していた(汎マリリア三十年史『豊原』1959年、中村東民、『三十年史』刊行会)。

哲夫は1932年3月21日にそこで生まれた。哲夫の出生届け番号は町で36番。市制開始からわずか3年。現在では20万人を数える地方中核都市の、最初期の一人だ。兄は良夫、姉には良枝、鈴枝、国枝を持ち、末っ子だった。

哲夫が泳ぎ始めたのは7歳、ちょうど太平洋戦争開戦直前の1940年頃だ。小児ぜんそく持ちだった哲夫は、親の薦めで身体を鍛えるために水泳を始めた。

『パウリスタ新聞』1952年9月18日付によれば、熊本県八代郡出身の戸崎新蔵と山崎用一が、1940年10月8日に私費で自分の農園の中に「日本人プール」を竣工した。長さ25メートル、幅12メートルだった。工事費用は30コントの予定が50コントもかかったという。当時、そんな開拓地でプールを持っている日本人は極めて珍しかった。

岡本はその「日本人プール」で水泳を始めた。『ニッケイ新聞』2004年8月14日付で岡本は、「タイル張りのプールなど田舎にはなく、小川をせき止めて造ったもので、カエルがよく泳いでいた。泳ぎ出すとすぐに濁ってしまい、目を開けても水中ではなにも見えなかった」と最初の頃のことを語っている。

同じ頃にヤーラ倶楽部(Yara Clube)ができ、以後はそこで練習を重ねるようになった。

1937年から本格化したゼッツリオ・バルガス独裁政権のよるナショナリスム政策により、38年には10歳以下の児童への外国語教育の禁止、同年末には日・独・伊の外国語学校が全て閉鎖させられ、41年7月には全邦字紙が強制廃刊となった。岡本が10歳前後を過ごした戦争期は、日本移民にとって受難の時代だった。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月5日6日)からの転載です。

 

© 2016 Masayuki Fukasawa, Nikkey Shimbun

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このシリーズについて

このシリーズでは、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)の歴史を振り返る。ブラジルの「ニッケイ新聞」(2016年)からの転載

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執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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